幸せな世界
石井平時。享年十七歳。
そう、俺は死んだ。あまりにもあっけない人生であった。
朝の登校中、少し調子にのってスピードをあげ、自転車をこいでいたら道路を渡る際にトラックに衝突して気づいたら死んでいた。まぁ、ちゃんと周りを確認しなかった俺が悪いんだけど。
ほんと、俺、死んじまったんだよな。死ぬというのが、こんなにもあっけないものだとは思いもしなかった。俺の意識はトラックに衝突した衝撃で吹っ飛んでいたから、たいして痛みすらも覚えていない。
そういうわけで今の俺は俗に言う「幽霊」という状態だ。生前幽霊の存在なんて信じてなかった俺がその幽霊になるんなんて予想だにしなかった。
ちなみに俺の中での幽霊の定義は、死んでなおも生前の世界にとどまっている魂を指す。だから、天国や地獄といった場所に行ってしまっているものは含まない。
そうなると俺は生前の世界にいるというわけなのだが。
カッカッカッ。
真っ白なチョークが黒板の上で文字を形作るたびに心地よい音が耳に響く。といっても、幽霊だから耳の器官が作用して音が届いているわけではないけれども。
せわしなくペンを動かし黒板に書かれた文字を必死にノートに写している生徒もいれば、机の下でこっそりと携帯をいじっている生徒もいる。他にも机に突っ伏している者、かくんと時々頭が落ちてははっと顔を上げる者もいる。一番後ろから教室を見渡す限り、クラスの半分近くが睡魔という悪魔に敗れたか、未だに戦い続けている。
俺なら絶対寝てる。ていうか、幽霊なのに猛烈に眠いぞ。
俺は腕を組み、クラスの後ろにあるロッカーに寄りかかりながらかつて俺が所属していたクラスを見ていた。
幽霊であるから当然誰も俺の方向を見向きもしない。むしろ、指を指されたりしたほうがびっくりだ。
淡々と国語の先生の言葉が教室に響く。午後の授業だからか、午前中以上に睡魔がクラスの空気を支配している。
つうか、本当に眠い。どうせ誰にも見えないし寝てもいいよな。文句を言われるはずがないし、言われる筋合いもない。幽霊にそんなこと言うなってんの。
視線を黒板から足元へと移し、目を閉じる。先生の声、チョークの引かれる音、誰かがペンを落とし立ち上がる音、それらがばかりが妙に響く。
何事もなかったように授業は進んでいく。
ああもう、寝てしまおう。
俺が完全にそう決め込んだとき、最後の授業の終わりを告げるチャイムがなった。
……もっと早く寝ればよかったな。
俺のくだらない後悔はクラスメイトだった生徒たちが立ち上がる音にかき消された。
そもそもなんで俺は学校に来てしまったんだろう。
幽霊だからどこにでも行けるというのに。誰にも見られないということは入ってはいけない場所や、遠くまでも行けるし、映画だってタダ見れるといいうのに。
身近だったから、だろうか。
毎日通って、授業を受け、友達ふざけて、部活に行って。
他愛もない日常の一部となった場所。俺の居場所の一部。
それか、俺がみんなに会いたいと心のどかで思っていたのだろうか、どうせ誰にも見えないのに。
そうだ、俺は決して誰とも触れ合えることができない。
けれど、みんなはいつも変わらない日常を送る。きっと明日もそうだろう。何年経っても、大人になっても。
わかりきっているはずなのに。なんで俺はくだらないことをしようとしていたんだろうか。
放課後の喧騒が俺を包む。掃除当番だとため息をつく者、部活へと教室から走り去って行くもの、誰一人沈んでいる者はいない。
しかし、せっかくだし、あちらこちらをうろついてみよう。
部活を見に行こうか、それとも誰かの家について行こうか。
……ストーカーではないぞ、ほら、クラスメイトだったし、友人だし、変態だとかそういうわけではないからな。幽霊だし、問題ないはずだ。うん、問題ない。ないよな?
「変態!」
「ぐっ」
突然飛んできた言葉に俺は息が詰まる。いや、呼吸してないけど。幽霊でもそんな感じはするんだよ。
俺は驚いて声のした方を見るとある男女が言い合いをしているのが見えた。どうやら俺に向けた言葉ではないようだ。向けらているはずもないが。そんなこと言ったら勝手に驚いている俺もおかしい。見えないとわかっているのについ反応してしまう。
何があったかよくわからないが、女子のほうが男子にひたすら変態を連呼していた。同じ男子として、変態と言われている男子に同情してしまいそうだ。
ああ、でもあいつか。あいつなら変態連呼されても仕方ないか。あいつには同情してはいけない。絶対にしてはいけない。
ある点を除けばあいつとはけっこう趣味や意見が一致してちああいつとはそこそこ仲が良かった。昼も一緒に食べたりしていたし、何度か家にさえ遊びに行ったことがある。中学は違ったけど、まあまあ家が近かったのもある。
だけど、俺はある意見が合わないある一点、それだけがどうしても許せなかった。
「なんでわかんないのかな、あのキャラすげぇ可愛いのに」
「ったく、うるさい、変態、オタク。さっさと掃除してっ」
あいつは重度のオタクであった。
部屋にたくさんの女の子のフィギュアが飾ってあり、本棚にはライトノベルや漫画でぎっしり埋まっていたのだ。しかも全部可愛女子が出てくるものばから。
初めてあいつの家に行ったときさすがの俺も引いた。ドン引きだった。
「だからなぁ」
「さっさと、するっ」
女子が手に持っていた箒の柄であいつの足をつつく。
かなり手加減しているのか、ぜんぜん痛くなさそうに、しぶしぶとあいつは箒を取りに行った。
「もう、ここは他の班より一人人数が少ないんだからしっかりしてよね」
「へいへい。ったく、最近急に掃除する範囲が増えた気がするのは気のせいか」
「はぁ、何を言ってるの?」
女子があいつの言葉に眉間にしわを寄せる。
そりゃ、俺はお前と同じ班だったし、俺が消えれば掃除範囲が増えるのは当たり前だろう。逆に減るわけもないだろう。
俺はあいつの言葉にため息をつきながら窓に近寄り空を見上げた。
足元を箒がすり抜けてごみを集めていく。喚起のために開け放たれた窓から流れてく風はカーテンを揺らすことはあっても決して俺の髪を揺らすことはない。
俺の体を誰かがすり抜け、過ぎ去っていく。けっして誰にも気付かれることなく。
俺という存在はもう誰にも認識されることはない。
もう誰にも見えることはない。見られることもない。
そういえば、学校に来る前に母さんにすれ違った。
鼻歌を歌いながら機嫌がよさそうに自転車に乗っていた。きっと買いものに行っているところだったのだろう。
そうして、俺に気づくことなく俺の体の右半分をすり抜けて行った。
まあ、幸せそうだしいいか。
母さんも、クラスのみんなも。
だって、世界はそういうふうに作られているから。たとえ何かが欠けたとしても、みんなが幸せでいられるようにと。誰かが悲しまないようにと。
それに気づいたのは俺が幽霊になってからだ。
世界は今日も幸せに満ちている。
たとえ俺が死んでも悲しむものは誰もいない。
だって、もうこの世界にはないのだ。
「俺」という存在の記録が。
はじめまして、こんにちは。
この短編は部活用に書き下ろしたものです。
そのため個人的にはかなり短い作品となっております。
誤字脱字等ございましたらお知らせください。