儚い白
彼は飢えていた。
喉が渇いて仕方がない。水を飲んでも、酒を飲んでも、何を口にしても満たされない。それは、血を啜ることでしか癒すことのできない、おぞましい、呪いのごとき、彼の額に刻まれた宿命。
元は人間であった。父も母も、妹も、普通の人間だった。自分も人間だと思っていた。
あの頃、彼は特に幸せでもなければ、不幸でもなかった。とはいえ、今から比べれば遥かに穏やかな生活であったと言える。それが狂い始めたのは、彼が15歳の誕生日を迎えた頃だった。
8歳の幼い妹が、三階のベランダから落ちた。三階建ての一軒家。幸い命に関わる怪我ではなかったけれど、落ちる時にぶつけた腕の出血は酷かった。
彼はベランダから慌てて下を覗いた。そして、凍りついた。
動けなかった。ごくり、と無意識に喉が唾液を飲み下す。全身がどくどくと脈打っていた。
早く、早く助けを呼ばなければ。理性がそう訴えているのに、流れ出す赤から彼は目が離せなかった。妹の泣き叫ぶ顔が、兄の表情を見て、怯えに歪んだ。
それからしばらくは何も変わらない日常が続いた。ただ、妹が時々恐怖を湛えた大きな瞳で彼を見つめるだけ。両親は彼の異質さに気付く様子もない。だが、それに堪えられなくなったのは彼自身だった。
満たされない飢え。どうしても堪えられない時は、自分の腕に爪を立てて、その血を舐めた。だが所詮は自分の身体。自分が家族を餌として見ていることに気付いたとき、彼は家を飛び出した。
血に飢えた吸血鬼は、宵闇に紛れて街を徘徊した。
その姿は何ら人と変わらない。むしろ、まるで獲物を引き寄せるためかのように、細身で背の高い美しい青年。ただその瞳だけが、鈍い血の色を沈めていた。
「ねえ、お姉さん。俺と遊ばない?」
目を細め、口角を上げて、優しげに微笑む。そんな言葉で、手の中に墜ちる他愛もない存在。声を掛けられることなど待っていないという顔を作りながら、選ばれないことを恐れている。もうとっくに、自分には選ばれる価値など無いのではないか。笑顔の下で、皆嗤っているのではないか。そんな不安を化粧の下に押し込めて笑う女たち。
ただひたすら夜に身を隠し、生き血を求めるだけの年月は、彼女らを弄ぶことへの躊躇いを忘れるには十分すぎた。今ではもう、何の感慨も感じない。胸の奥の奥、かすかに残った人間の記憶が疼くだけだ。
女の手を取り、暗がりに連れ込む。怯えたような、期待するような表情を浮かべるその愚かさを嘲笑いながら、ゆっくりとその首筋に牙を埋める。
「えっ……」
何が起こっているかわからない。そんな声を上げたところでもう遅い。
すでに彼の牙は深々とその肌に突き刺さり、滲み出る赤がその唇を彩る。力を失う体で抗う女を押さえつけ、熱い生き血を啜る。浅ましく。獣じみた行為。
彼は口元を拭い、熱を失っていく女の脱け殻を放す。放っておけばそのうち誰かが片付けてくれる。この退廃した街。
彼は狂おしい疼きが収まりつつあるのを感じながら、賑やかな通りへ足を向ける。そしてまた、渇いた一日を過ごすのだ。
そんなある晩、彼は少女と出会った。
少女は路地の端に立っていた。少女と吸血鬼とは、しばし見つめあった。ふと少女は目を逸らし、彼がその視線の先を追うと、そこには女の死体が打ち捨てられていた。
「貴方が食べたの?」
唐突に、澄んだ高い声が訊ねた。あまりにも直載的な問。呆気に取られて、彼は黙って頷いた。
すると少女は臆する様子もなく、彼の方へ歩き出した。すぐ隣にしゃがみこみ、女の首に触れる。傷口から零れた血をぺろりと舐めて、少女は首を傾げた。
「美味しい?」
彼はたじろいだ。少女の瞳は真っ直ぐ彼を見ている。こんな風に人と向かい合ったのは、あの家を飛び出して以来だった。
怖くないのか、と彼は言った。
手を伸ばし、少女の細い首に掛ける。
喰われるかもしれないのに。そう言いながらも、自分がまるでそんな気になっていないことに、彼は気付いた。
少女は自分の首に添えられた彼の腕を見下ろし、不思議そうに言った。
「どうして?単なる食物連鎖でしょう」
そしてその細い指で彼の胸をとん、と突く。
「今食べたばっかりだからお腹空いてなさそうだし」
少女は綺麗に微笑んだ。
「それに私、死んでも別に困らないもの」
憐れな吸血鬼は、その微笑みに魅せられたのだった。
「私が死んだからって、何も変わらないのよ」
少女は自明かのようににっこりと笑った。
「親がどうとか、友達がどうとかいうけど、結局世界は辻褄を合わせて、最初から何もなかったみたいに回っていくの」
彼はただ黙ってそれを聞いていた。
少女と彼は三日に一度くらいの確率で会うようになった。初めて出会った暗い路地の隅に座り込んで話す。とは言え、つらつらと話しているのはほとんど少女だけで、彼はじっとそこにいるだけだった。
そこに約束の類いは何もなかった。彼は毎晩、その暗がりに人目を避けるように隠れ、少女が気紛れに現れる。
彼には少女がやって来る理由がわからなかった。吸血鬼を怖がりもせず、ふらりと訪れる。
「でも私は生きてるし、たぶんしばらくは死なないでしょう」
少女はつまらない事実を述べるように飄々と告げた。
「だって、生きる意味なんか無いように、死ぬ意味も別にないから」
淀んだ闇の中で、少女の肌だけがほの白く浮かび上がる。その白さに浄化されるように、焼けつくような血への欲求が薄まる。その時だけは、自分が人間の感覚を少しだけ取り戻すのを、彼は感じていた。
どうしてこんな場所へ来るのかと、彼は少女に一度だけ訊ねた。
少女は彼を見上げて簡潔に答えた。
「ただの暇潰しよ」
此処に存在する意味もわからなくて退屈だから、退屈が終わるまでの暇潰し。少女は歌うように言った。その様子は楽しげですらあった。
君が自分の意味を知らなくても、自分にとっては君が存在するだけで十分なのだと、ついに彼が口に出すことはなかった。あるいは、少女はいつまでもいるような錯覚を起こしていたのかもしれない。少女の不思議なまでの安定感はこの世に錨を下ろすものではなく、あまりの自分に対する執着の無さ故であったのに。
そして唐突に少女は姿を消した。
いつもの路地の隅に置き忘れたような白を見て、永遠に少女を失ったことを、彼は知った。
涙は零れなかった。涙の流し方など、とうの昔に忘れてしまった。その代わりに彼は、どうしようもなく膨れ上がる喪失感を抱えたまま、魂を失ったように闇に閉じ籠った。
血の潤いを失くした身体は、ぼろぼろと崩れていった。滑らかな肌は剥がれ落ち、艶やかな唇は色を失った。魅惑的な容姿は見る影もない。けれどもう人の血を貪る気には、彼はなれなかった。
愛してはならなかった。その存在を保ちたいのなら。身体は血を欲するのに、その渇きが届かないほど強く、心はただ一人の心を欲する。愛するということは、終わりの合図だった。
長い長い年月を青年の姿で生き続けた孤独な吸血鬼は、今ようやく還ろうとしていた。
彼は微笑んだ。
「生きている意味も死ぬ意味も、結局すべては君の存在と、君の終わりのためだった」
呟いた声だけを残し、その姿は夜明けに溶けた。