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近くに金箔を売っている店はなかったので、ネットで注文することにした。
到着までに数日がかかると、店からメールが来ていた。
ゲート作りに関して、気になることをトーコに尋ねる。
「ゲートってのは、例えばこういうところにそってゴールドを貼り付けていってもいいのか?」
俺の部屋の出入り口。
扉の枠を指して、トーコに聞く。
「ゴールドで四角く区切られてさえいれば、大丈夫なはずです。……こんな大きなゲートが作れるんですか?」
「多分できるはずだ。これくらいの大きさなら、俺も通れるしな。俺もトーコの世界ってのは見てみたいし。一緒に行ってもいいだろ?」
「エーリも来るのですか!?」
思いのほかトーコが喜んでくれた。
歓迎してくれるという事だろうか?
少しうれしくなる。
「そう考えてんだがな……。異世界ってのはどんな世界なんだ?」
「どんな……。うーん、どうなのでしょう。私はエーリの世界をよく知らないので、具体的にどう違うのかは分からないのです」
そりゃそうか。
俺だって、いきなりお前の住んでいる世界はどんな世界だ? なんて聞かれたら言葉に詰まる。
「そうだな……。じゃあ例えば、魔法なんてものはあるのか?」
異世界と言えば魔法だろう。
「ありますよ! この世界にはないのですか?」
こともなげに答えてくれるトーコ。
まさか本当にあるとは……。
しかしこれはいいことを聞いた。
「ああ、この世界に魔法はない。……そうか、魔法のある世界か。さぞかし楽しい世界なんだろうな」
「いっぱい楽しいことがあるのです!」
「……そっか」
この世界じゃない世界に行きたい。
そんなことを本気で考えていたのは、いつ頃までだっただろうか……。
いまではもう、そういうことを考えなくなってしまった。
この現実にそんなものはないと、わからされたからだ。
その異世界への扉が、現実のものになろうとしている。
幼いころ、俺が異世界に憧れた理由は、いったいなんだっただろうか……?
◆
何日か経ったが、まだ金箔は届かない。
まあもうすぐ来るだろ。
トーコを見ている限り、別に慌てる必要もないようだ。
せっかくなので、トーコには聞いておきたいことがあった。
「こういう靄って、トーコには見えてるのか?」
「もや?」
「なんかこう、色のついた靄みたいなのが浮かんでるだろう?」
この話を他人にするのは何年ぶりだろう。
俺には、普通の人には見えないものが見える。
カラフルな色のうすい靄が、そこかしこに漂っているのが見えるのだ。
まだ俺が幼かった頃。
この色のついた靄が何なのか知りたくて、いろんな人に聞いて回ったことがある。
けれど、皆の答えはいつも一緒だった。
そんなものは無い。
俺のことを心配した両親は、まず俺を眼科へ連れて行った。
結果は異状なしだった。
それでも俺は、在りもしないものを見続けた。
次は脳外科に連れて行かれた。
その次は精神科。
精神科に通院するようになって、やっと俺にも理解ができた。
この靄は、見えてはいけないものなのだと。
それから俺は、この靄は見えていないことにしている。
精神科の先生にも、見えなくなったと嘘をついた。
今でも靄が見えていることを知っているのは遠子だけだ。
トーコならもしかしたら、これが何か分かるかもしれないと思った。
それに分からなかったとしても、トーコなら俺のことを馬鹿にしたりはしないだろう。
なので軽い気持ちで聞いてみたのだ。
「魔素のことですか?」
トーコの答えは、実にあっさりしたものだった。
「魔素?」
「ああいう、赤かったり黄色かったりする霧ですよね?」
トーコが、部屋の隅に浮いている赤い靄を指差して言った。
そうか、これは霧だったのか……。
靄と霧との違いはわからないが。
「この世界の魔素は随分薄いですよね。どこもこれくらいのものなんですか? それともこの辺りが特別薄いのですか?」
「たぶん……、どこでもこれくらいじゃないかな?」
俺は平静を装って答えた。
気を抜けば、泣いてしまうかも知れない。
気合を入れて、揺れ動く感情を抑える。
こんな何気ない話の途中で泣き出すなんて、馬鹿みたいだ。
けれど……。
思えば、この靄についてまともに話ができたのはこれが初めてだ。
この靄のせいで俺の中にあったわだかまりが、確かに溶けていくのを感じる。
俺は、自分の中に正体不明の何かがあるのが怖かった。
それを誰も信じてくれない。
そんなものは無いのだと一方的に断じられる。
逃げ場のない恐怖は、俺の中にたまっていく一方だった。
遠子だけは、未だに俺に靄が見えることを知っている。
けれどそれは知っているだけで、俺を理解できるわけではない。
それは救いにはならなかった。
俺は今、トーコというこの小さな妖精に救われたのだろう。
「魔素っていうのは、トーコの世界には普通にあるモノなのか?」
気持ちを落ち着け、不思議な霧についての質問を続ける。
「ありますよ! 魔素は魔法を使う元になるんです! でも不思議ですね、人間には魔素は見れないと聞きました。見れるのは妖精とエルフだけだと言っていました」
「そうなのか……。トーコの世界には、エルフもいるのか?」
「そうです。エルフは魔法を使える唯一の種族なのです。私も、本当のエルフを見たことはありません」
「妖精は魔法を使えないのか? 魔素って言うのは見えるんだろ?」
「妖精は見えるだけで、魔素をコントロールすることはできません。残念です」
トーコは本当に残念だという顔をする。
「魔素が見えるのなら、エーリは魔法が使えますか?」
「どうだろう。魔法ってのはどうやって使うんだ?」
「魔素を集めて使うと聞きました」
「集める……?」
色のついた薄い霧は、いたるところに浮かんでいる。
手を伸ばしてみるが、触れることはできないようだ。
「……やっぱり触れないな」
一応、今までも触ろうと試したことはあった。
その時も魔素には触れなかった。
なら、どうやって集めるのだろう?
「精神集中して集めるらしいです。魔素は直接触れませんから」
「精神集中?」
目を瞑って、それらしくうんうんうなってみる。
目を開ける。
何も変わっていなかった。
「よく分からないな……」
「この世界の魔素は薄いですから……。元の世界に戻ったら、もっと分かりやすいと思います」
「そうか。じゃあ、トーコの世界に行ってからもう一度試してみよう」
「はい! その方がいいと思います!」
◆
「なんで学校休んでるのっ!?」
勢いよく俺の部屋の扉を開けて、いきなり遠子が姿を現した。
「お前はなんで俺の部屋に勝手に入ってきてるんだ?」
俺は椅子に座ったまま、椅子を回転させて遠子の方を向く。
この女はとんでもない女だ。
普通人の部屋に入るときは、ノックの一つもするのが礼儀だろう。
「あんたが学校を休んでるから、わざわざ見舞いに来てやったのよ。ほらっ!」
遠子が手に持っていた袋を投げてよこす。
「なんだこれ?」
「見舞いだって言ったでしょ?」
袋の中にはカフェオレが一つ。
「見舞いにしてはどうかと思うが?」
「あんたにはそれで十分なのよ」
ドカッと、遠子が遠慮もなしに俺のベッドに腰を掛ける。
おいおい、壊さないでくれよ……。
「それで、頭痛は治ったの?」
遠子が聞いてくる。
怒っていても、一応心配はしてくれるんだな。
「ああ、割と調子いいよ」
素直に答える俺。
「だったら、なんで学校に来ないのよ!!」
そして再び怒る遠子。
優しく聞かれたから素直に返事をしたのに、まさか再びキレられるとは。
「授業にだけは出席するって約束したでしょ!?」
「あ、ああ……。そうだったな……」
それは俺と遠子がした約束。
もう、一年以上前になる。
「なんで出てこないの? 何かあったの?」
再び優しくなる遠子。
本当に俺のことを心配してくれているのだろう。
「まあな。悪いけど、もう学校には行かないよ」
しかし俺はその遠子に対して、こんな恩をあだで返すような返答をしてしまう。
「ふっ……ざけてんのっ!? 学校行かなくてどうするつもりなのっ!? 大学まで行けば、全部帳消しにできるじゃない! 何でまたあきらめるのっ……!?」
遠子が、俺のことを思って言ってくれているのはよく分かる。
でも、逃げるとかそういう事じゃない。
それを遠子には分かってほしい。
「やりたいことができたんだ」
「やりたいことって何……?」
ここで素直に全部話したところで、遠子には理解できないだろう。
俺がおかしくなったと思われるだけだ。
「私には言えないこと?」
「もう少ししたら、説明する。だからもう少しだけ待っててくれ」
遠子のまっすぐな瞳が、射抜くように俺を見る。
うっ……この目を見ちゃだめだ……。
昔からこちらに非がなくても、この目で見つめられて勝てたためしがない……。
あからさまに目をそらす俺。
しばらくの沈黙が続く。
「……分かった。待ってあげるから、ちゃんと説明してもらうからね?」
もともと、遠子にだけはきちんと別れを告げるつもりだった。
遠子には恩があるから、終わりくらいはきちんとしたい。
「帰る」
突然そう言って遠子は立ち上がり、そのまま部屋を出ていこうとする。
部屋を出る前に振り返る遠子。
「待ってるからね?」
「ああ……。分かってるよ」
遠子が足音が部屋を離れていく。
やがて、一階から俺の母親と遠子の話す声。
何を話しているのかは分からなかった。
「あの人、私と同じ名前でした!」
トーコが、遠子が帰ったのを見計らって現れる。
部屋に誰か来たら隠れているように言っておいたのだ。
「そうだな……」
「遠子さん、怒ってましたけど?」
「悪かったとは思ってるよ」
本当に。
◆
結局、ゲートは手ごろな廃墟の中に作ることにした。
俺たちが通った後のことを考えてのことだ。
俺たちが通った後も、金で囲われた範囲はゲートとしての機能を維持したまま残るらしい。
だったら、人が多くいるところに作るわけにはいかない。
そもそも人目につく所で金箔を貼るなんてしたくない。
そんなことをしていては、全然知らない人からも変人扱いされてしまう。
俺は廃墟の中で壊れて扉の外れた枠組みを見つけ、金箔を張り付けていく。
ぎりぎり一回使えればいいだけなので、作業は適当なものだ。
「これが金箔……? 本当にすごく薄いです!」
トーコは金箔の薄さに驚いている。
「くしゃくしゃにするなよ? すぐ破れるからな」
「はい!」
俺はペタペタと、金箔を適当に張り付けていく。
この調子ならすぐ終わりそうだ。
「そろそろ、遠子を呼んでおくか……」
この廃墟は分かりやすい所にあるので、目印さえ伝えておけば遠子一人でもたどり着けるだろう。
携帯電話を取り出し、メールを送っておく。
金箔を張る作業は、あっさりと終わった。
「こんなもんか……」
金箔で最後の隙間を埋める。
「すごいです!」
トーコの歓声とともに、ゲートの枠が出来上がった。
素人が張り付けた金箔は見るからによれており、そう長くはもたないだろう。
廃墟の中で輝く、やたら豪華な枠だけの扉。
なんだかシュールな光景だ。
一応、金で四方を囲むことができた。
トーコの言った条件は満たされてるはず。
「これからどうするんだ?」
「それじゃあ、ゲートを作動させます! 離れていてください!」
そう言ってから、トーコが口を動かした。
キーンと、耳鳴りのような音が響く。
どうやらトーコが何かをつぶやいているようだが、何を言っているか全く聞こえない。
人間の可聴域外の声と言うことか……?
すぐに、ゲートに変化が起きた。
ゲートの中心で、小さく空間が裂ける。
次の瞬間には、それが一気にゲートいっぱいまで広がった。
さっきまで見えていたゲートの向こうにあるはずの景色が消えた。
ゴミや瓦礫が積み重なった廃墟は見えなくなり、代わりに違った風景が見える。
森……だろうか?
風景は揺らいでおり、はっきりとは見えない。
まるで水面に映った景色だ。
「うまくできました!」
トーコがうれしそうな声で言う。
「これがゲート……?」
「そうです!」
確かに、向こう側にはありえない光景が見える。
しかし異世界への扉ってのは、こんなに簡単に開いていいものなのか?
それから、遠子が現れるまでしばらく待った。
待つこと数分、ザリッと、後ろから砂利を踏みしめる音が聞こえた。
振り返ると、遠子が立っていた。
「なに、これ……?」
ゲートを見て、信じられないものを見たという表情をしている。
それも当然のことだろう。
なぜなら、俺だって驚いたからだ。
いつまでも驚いている遠子を眺めているわけにもいかないので、話を切り出そう。
俺は、ゲートの向こう側に用がある。
遠子とはここでお別れだ。
「これが何かわかるか?」
ゲートを差して、遠子に尋ねる。
首を振る遠子。
「一体なんなの……?」
「聞いて驚け? これはな、異世界への扉だ!」
「頭痛でついに頭がおかしくなったの……?」
ひどい言いようだな……。
「まあ、どう思ってもらっても構わない。遠子、お前とはここでお別れだ」
「お別れ……?」
俺の表情から冗談ではないと感じたのだろうか?
俺の頭の心配をしたくせに、やけにまじめに相手をしてくれる。
まあいい。
「この世界に、俺が求めるものはない。俺は今から異世界に行く! 危険な旅になるだろう! もしかしたら、向こうで死ぬかもしれない! まあ、気が向いたら帰ってくるつもりだ!」
俺はリュックを背負っている。
中身は当面の食料や、着替え。
金箔も当然持っていく。
だから、向こうでゲートを作ることもできるだろう。
「一体、何言って――――――」
「じゃあな」
話が長引くのは嫌だったので、言いたいことだけ言って別れの言葉を告げる。
俺は、そのままゲートに飛び込んだ。
首筋に、トーコが捕まっている感触を感じる。
そういえば……。
いまさら大事なことを思い出した。
トーコにゲートの処理を頼むのを忘れていた……。