夜明けの眠り
志穂はアクセルをいっぱいに入れた。ゴールまではもう一直線だ。勝利はほとんど手の中に入っていた。
しかしその時、衝撃が走った。後ろから追突されたのだ。志穂の車は何回転もし、壁にぶつかった。その隙に緑里の車が飛ばし、ゴールへ突っ込んだ。
「やったっ」
「ああー」
志穂はコントローラを放した。テレビの中では緑里のほうに「Victory」と表示されている。
「ずるい、最後までアイテムとっとくなんて」
「ずるいことない。さ、買ってきて」
志穂は二人掛けのソファから立ち上がり、伸びをした。バッグの中から財布をとり、マンションの外に出る。外はもう暗い。時計を見ると八時過ぎだった。
コンビニでソーダとウーロン茶を買った。飲み終わってから緑里は帰った。ここは志穂の家だ。志穂と緑里のそれぞれのマンションは電車で一時間分離れている。
マンションの入り口まで志穂は緑里を送った。別れる前に、いつものように志穂は上を向き、緑里は軽くかがんでキスをした。
「そこで資料の3ページ目をご確認いただきたいのですが……」
志穂は言われた通りに分厚い書類をめくった。今日の議題は新店舗のコンセプトで、社内のチームごとに案を持ち寄り、発表していた。
志穂が働いている株式会社文長堂は、書籍・文具の販売を主な業務としている。志穂が所属しているのは第三販売部のWEB事業課だ。普段は会社のサイトを作り、そこで本や自社商品を売っているのだが、今回はなぜか企画チームの一員に加えられてしまった。「課を越えて新しいアイディアを生み出す」とか何とか言われていたが、なぜ普段はページを作ったり商品の受注をしたりばかりしている自分に企画を生み出す力があると思ったのか、どうにも上の人の考えることはよくわからない。
ほかのチームのプレゼンが終わり、最後に志穂のチームの番が回ってきた。前に立つのは伊藤良樹という男性社員だ。背が高く、日によく焼けている。
「じゃ、最後に我々の番ですね。すぐ終わりますんで、もうちょーっとだけお時間いただきます」
伊藤は流暢に話した。プロジェクターで映しているスライドも、ふつうののっぺりとしたものではなく、青を基調にしたスタイリッシュなものだった。
「……つまり、コンビニの雑誌コーナーで買えるようなものはいらない、というわけです。書籍の文長堂の意地見せたる、と」
志穂はあまり企画に興味がなかった。普段の仕事のほうが好きだった。ミーティングや資料集めにも協力したが、それは仕事そのもののためではなく、周りの目を気にしてのことだった。
プレゼンが終わると、周りは伊藤に対して盛大に拍手を送った。一拍遅れて志穂もぱちぱちと拍手する。
「どうだった、俺のプレゼン」
「ばっちりでしたよお」
席に戻った伊藤を、同じチームの花森知美がねぎらった。「ねっ、志穂さん」と言われ、志穂も「本当に」と答える。
「お疲れ様でした。皆さんのプレゼンを精査の後、採用された案についてはそのままプロジェクトを進行していきます。決定は25日までに行われますので、社内報告にてお知らせします」
その声で長かった会議は終わり、ぞろぞろと人が会議室の外に出て行った。
打ち上げ、ということでその日は六時半に会社近くの『串どり』だった。伊藤、知美、それと第一販売部の韮澤敏明、それに志穂がチームの全員で、『串どり』についたのは志穂が一番最後だった。
若手を集めて作られたチームなので、会社の飲み会のわりにあまり気を遣わなくてすんだ。話題も最初の一杯二杯くらいまでは新店舗の企画やどの案が採用されるかという真面目なものだったが、その後はどんどん他の事にスライドしていった。
「いや変だって、そんなの。てか嫌でしょ?」
「そうなんですよ、ていうかそんなパンツスーツばっか着るわけにいかないじゃないですか」
知美が彼氏の話をしていた。知美は「一緒に出かける時以外は、スカートをはいてはだめだ」と彼氏に言われているらしい。
「だよねえ」
志穂はあいづちを打っていたが、「そういえばさ、神足さんって彼氏いるの?」とお鉢がこちらに回ってきてしまった。
「つきあってる人はいる」
「えー、どんな人ですか?」と、知美が手にカシスソーダのジョッキを持ちながら身を乗り出した。
「えーと、私より2つ年上だから、27」
「あ、年上なんだ。何の仕事?」
「バーの店長やってます」
「あー、そうなんだ、すごいですね」
「雇われだけどね」
いつものように、志穂は一点だけを隠して本当のことを話した。
「そしたら、彼氏さんのお店に飲みにいきたいですね」
「あー、行きたい行きたい」
「それがここからだと遠いから……日本橋のほうで」
「あ、そっちか」
会社は新宿にある。そこで話はひと段落したので、志穂はほっとした。変に盛り上がりでもして、本当に行くことになってしまったらどうしたらいいかわからない。
飲み会は11時前にお開きになった。韮澤の家が茨城にあるらしく、終電が早いのだ。駅で皆と別れた志穂は、どちらの電車に乗ろうか迷った。家に帰るなら八王子方面なので普段なら迷うこともないのだが、今日は金曜日で明日は休みだ。しかも志穂は少しばかり酔っぱらっていた。
結局、志穂は地下鉄に乗ることにした。九段下で乗り換え、日本橋で降りる。大通りを外れ、歩道もない細い道を行く。小さな「OPEN」の文字のネオンの光る店の前で立ち止まり、扉を押し開けた。
「いらっしゃいませーえ」
黒いポロシャツの男の店員が志穂を迎えた。適当に小さなテーブルの席につき、ビールを頼む。
店の中はとても暗い。はじに置かれているダーツマシンの周りとカウンターのそばは少し明るいが、その他の場所ではやっと足元が見えるくらいだ。かなり大きな音で志穂の知らない洋楽が流れている。
「お待たせしましたー」
ビールを飲みながら、志穂は店内を見回した。客は4組ほど、そのうちの2組はカウンターに、1組はテーブル席に、もう1組はダーツマシンで遊んでいる。しかし、店の中に緑里の姿が見当たらなかった。
「はい、お待たせです」
「おー、待った待った」
カウンターに座っていたサラリーマン風の男が大声を上げた。もうだいぶ出来上がっているらしい。出された皿にさっそく手を伸ばしている。
その皿の向こう、カウンターの中に緑里がいた。やはり黒いポロシャツを着て、長い髪を後ろで一つに束ねている。
志穂が緑里に気付くのと同時に、緑里もこちらに気付いたようだった。片手を胸元で開き、軽く合図をしてきた。志穂も手を軽く振る。
緑里はそのまま手で「おいでおいで」をした。志穂は鞄とビールのグラスを持ち上げ、そのままカウンター席に移動する。
「どうだった?」
「まあまあかな? まだ採用されるかはわからない」
「そっか」
緑里はふいにフロアに出て、テーブル席の注文を取りに行った。戻ってからしゃがみこみ、カウンターの下にある冷蔵庫からグラスを出し、水割りをつくる。そしてそれを運んでいった。そのひとつひとつが正確で好もしい動作を、志穂はぼんやりと、しかしずっとみていた。
一見したところでは、緑里はあまり水商売をしているというふうには見えない。むしろ美術の教師とかパン屋の店員とかいったほうがしっくりくる。化粧もうすいし、物言いや物腰もやわらかい。だが、「外柔内剛」という言葉を志穂は緑里のために覚えた。実際、たちの悪い酔っ払いや客同士のいざこざをさばくには、それなりの厳しさというかしっかりしたところが必要なのだろう。わかってはいても、普段の態度といざというときの態度とのギャップに志穂はいまだに慣れない。びっくりする。
『レオニ』 という名前のこの店で、緑里は店長として働いている。普段の営業時間は夕方の5時から夜の1時までだが、金曜日の夜は始発の時間までやっている。
12時過ぎ、終電がなくなったころにまた客が入ってきた。タバコの煙が薄く漂い、店の中は無秩序な話し声でいっぱいになった。緑里とアルバイトの男の人は、注文をとりお酒をつくり、客の話し相手になりレジを打ち、休む間もなく働いた。志穂はダーツをやっていたグループに声をかけられ、一緒になって矢を投げて遊んだ。しかし活気が続いたのは2時くらいまでで、その後店の中はなんとなくけだるい空気に包まれた。思い切り口をあけて寝ている人もいれば、ぐだぐだと先ほどから同じ話を繰り返す人もいる。ダーツのグループは場所を変えると言って出て行った。
「おつかれさんでしたー」
アルバイトの人も、二時半で仕事が終わりらしく帰って行った。
「終電あるのかな」
「ないって。自転車だって」
緑里はフロアを回りながらテーブルを拭いている。志穂は大分眠くなってきて、カウンターの上に頭を乗せていた。
「えー、どこまで?」
「三鷹」
「ええー! 大変じゃない?」
「だと思うけど、『トレーニングになるからいいっす』って言ってる」
「ああー、たしかに体格よかったしね」
「そうそう。それこみで雇ってるし。用心棒がわり」
「へー」
客はそれ以降は増えも減りもせず、ぼつぼつと酒を頼み、電車が出始めると皆立ち上がって出て行った。最後のお客が帰ってから、緑里はレジを閉め、グラスを洗い、キッチンの床を流した。志穂もフロアの掃除を手伝う。
「あー、朝だ」
外に出ると、もう東の空が明るくなっていた。志穂も緑里も背を伸ばす。
緑里はいつも車を店の裏に停めている。緑色のコペンだ。それに乗り込み、二人は出発した。志穂はこういう、明け方に乗る車が好きだった。非日常の感じがする。本当は緑里の家に帰るだけなのだが、何か特別な場所に向かっているような気がするのだ。
「あー、今日も働きました」とハンドルを握りながら緑里が言う。
「お疲れさまでした」
志穂は車にいつも置いてあるフリスクをとり、二三粒口に運んだ。
「あ、ちょうだい」
あーと緑里が口を開けたので、志穂はその中に粒を放り込んだ。
「あー、からい」
「そういうやつだもん」
「からいの嫌いだ」
「自分で買ってるんでしょうが」
「だって、これくらいじゃないと目ぇ覚めないし」
緑里はそう言いながらアクセルを踏んだ。朝の道路は車も人も少なく、いくらでも飛ばせるようだった。
川崎の緑里のマンションに着くと、二人はまずシャワーを浴びた。昨日からの化粧や汗や、とにかく肌についていた不快だったものを流し落としてさっぱりし、軽い寝間着を着てベッドにもぐりこむのはほんとうに快適だった。志穂は緑里の腰に手を回し、二人の身体がぴったりとくっつくようにした。相手の温かみや、湯上りのボディーローションのにおいやしっとりした肌を感じながら、志穂は安心しきって眠りについた。