結奈の行方
例えば、こんな話がある――
結人という名前の男の子がいた。彼は幼い頃から、母親が本当は女の子を欲しがっていたことを、自分が男の子ではなく女の子だったらと密かに考えていたことに気づいていた。まだ八歳か九歳かそこらだったにもかかわらず、彼はなんとはなしにそれを察するようになっていた。
母の願望は彼女の言動に表れていた。例えば、彼女は息子にスカートを履かせることはないにしても、袖口のゆったりしたブラウスのような服やふっくらとしたホットパンツといった女の子趣味の服を与えることが多かった。結人のクローゼットの中にはそのような女の子的な洋服がたくさんあったが、ドラゴンや戦隊ヒーローのプリントされたシャツも同じくらいあった。そのような男の子らしい服を着ても母親は何も言わなかったが、息子が女の子っぽい服を着ていると明らかに嬉しそうだった。
他にも、母は息子が外で遊んで服を汚したり日に焼けたりするのを嫌っていた。叱ったり機嫌が悪くなったりするわけではないし、いつもと変わらない様子で送り出して出迎えてくれるが、それでも結人は彼女が悲しんでいることを次第に理解するようになった。それに引き換え、彼が家にこもっていると、母は嬉しそうに裁縫や絵やオルガンを教えようとしたものだった。
結人は母の願望に対して嫌悪感や拒否感があったわけではなかった。むしろ、いつも優しい大好きな母親の望みなら喜んで手伝ってあげたい、とぼんやり思っていた。だから、彼はたまに母の部屋の扉をノックした。すると、
「はーい。誰?」と母が言うので、
「私、結奈よ。」と彼は喉を震わせるような小声で答えた。
別に母のために自分を殺してそうやっていたわけではない。彼自身、このやりとりを楽しんでいた。
母親の部屋に入ると、結人はもう結奈になっていた。結奈は小さな女の子らしくチョコチョコ歩き回ったり、座っている母に背後から抱き着いたり、彼女の髪を結んだり梳いたりした。結人がうっかり現れて結奈とごちゃまぜになってしまわないよう、結奈は彼女の考えうる最大限で女の子らしく振舞った。結奈は、そしておそらく母親も、結人が来ないようにと祈っていた。
結奈は母の背に抱き着いたまま、甲高い声で早口に喋った。たまに興奮しすぎて言葉がつっかえてしまうこともあった。彼女たちの話は、結人の乱暴さをいちいち指摘して非難することだった。母が心底うんざりしたようにため息をついて、
「ほんとに、あの結人には困っちゃうよ。」
そう言っても、結奈は母に同情して慰めるように耳にキスをするのだった。結奈は世間の男の子の乱暴さというものを知り尽くしている女の子だったからだ。
結人が成長するにつれて結奈は次第に現れなくなり、高校生になる頃には天気雨のように跡形もなく消え去っていた。母親は何も気にしていない様子で、結人のクローゼットにあった女の子ものの服もいつの間にかなくなっていた。
ある日、二人で何気なく昔のことを話していると、母がふと思い出したかのように、
「そういえば、結奈はどこに行っちゃったんだろうね。それが知りたいわ。」と言った。
別段悲しそうでも深刻そうでもなく、昔よく家に来ていた友達はどこの高校に進学したのか、くらいの調子だった。口からポロリとこぼれたようなその言葉は、食卓の上に飛んだご飯粒を見てしまったかのように、結人を気まずい気持ちにさせた。彼がどう答えるべきか悩んでいると、
「結奈は死んでしまったことにしましょうね。」と母が優しく言った。
それに対して結人はとっさに、
「そんな悲しいこと、考えちゃダメだ。きっと彼女はどこかで生きてるよ。」と言った。
それ以来、結人はしばしば結奈のことを考えるようになった。彼にとって彼女は不思議な存在だった。二人は一度も会ったことがなかったが、お互いのことを誰よりも知っていた。その関係はまるで、夢の中でだけ会える悲劇の恋人のようだった。彼は次第に結奈を探すようになった。街や学校、その他どこにいても、すれ違う女性に少しでも結奈を感じると、彼は振り返らずにはいられないようになった。
ひょっとすると、彼女はまた別の少年の中に住み着いて、娘が欲しかった母親を慰めているのかもしれない。十数年たったある日のこと、自身の息子が妻に甘えているのを眺めながら、結人はそんなことを考えた。
――そんなお話。
リルケの「マルテの手記」の一部をもとにしました。




