命の境
待ち構えていた様々な人に連れられて、衣織は瞬く間に「生贄」にさせられた。一か月に一度二度しか使えない洗髪料を三日毎日使えと言われ、染み一つない服を与えられ、朝昼晩と日に三度も、一体村のどこにこんな量が残っていたのかと驚く程の食べ物を食らわされた。用意された部屋には心の落ち着く香が焚き染められ、廁に立った時ですら体からは良い匂いがしていた。
不満は、気安い会話相手がないことと、片足につけられた縄だけだった。
ただ、そんな生活も、四日目に終わった。その日は一日中食事なし。早朝、山奥の滝壺からくんできたらしい冷たい水での行水をして、その後は、極楽の三日の間に覚えさせられていた祝詞を唱え続けた。
そして五日目。
目覚めると、衣織の体は、小さく折り畳まれて、箱の中に仕舞われていた。
最初は全て忘れていた。いつも通りの目覚めのように、ぼんやりとしながら足をのばそうとすると、爪が硬い木板を叩いて、こもった低い音が響いた。不思議に思いながら手を動かすと、手の甲もまた木板に当たった。
理解よりも先にぞわ、と寒気が全身に走って、一気に頭が覚醒した。
走馬灯のように記憶がぐるぐると戻った。自分を取り囲んで響き渡る祝詞。大八車に載せられたたくさんの食べ物が、火に焼べられる様。思考がうっとりと溶けるような匂いのする煙。飲まされた液体は、酒ともつかない、妙な味がした。それを飲むと、ふっと心が落ち着いて、祝詞も心地よく聞こえた。
走馬灯を遮るように、空っぽのお腹から、吐き気がこみ上げてきた。
どれだけ眠っていたか分からないが、丸一日食べていないことは確実だ。便も箱に入れられる前に出し切った。
これからも食べられない。
食べられないまま、死ぬ。
「あ、あ、ああ」
理性より先に理解した体が、周囲の木板を全てで突き破ろうとするけれど、そこに希望は何もなかった。
今が朝か夜かも分からない。ただただ暗い。暗くて静か。ここはたぶん穴だ。ぼんやりと覚えている。小さな箱に入れられた後、上から蓋を被せられて、どこかに降ろされた。土の散る音と、蓋が軋む音がした。木板を透かす光がだんだんと失われて、意識と暗闇の境目が分からなくなった。
「いや、いや……」
体をかき抱く。腕の中で皮膚が萎れていく。そんなの錯覚だとはねのけるには正気が足りない。むしろ生贄になったばかりだという認識こそが錯覚ではないか。死の間際に夢を見ているだけだと、言えない理由はない。だってここには、自分しかいない。
怖い。
役立たずな自分が生贄になるのが一番良い。皆を助けられたら嬉しい。貧しい家の子や老人の餓死が聞かれ始めた今、あえて自分が生きていなくてはならない理由など、特にない。そんな気持ちは、どれも嘘ではない。
けれど、怖い。
自分の意志ではどうにもならない心の奥底が叫ぶ。こんな、恐ろしさが長く続く死に方は、とても、とても、耐えられない――。
「助けて、か……」
その、祈る先こそが自分を求めているのだと気がついて、渇いた口から息が出た。
「助けて」
白装束が重くのしかかる。
「だ……誰か。誰かぁっ」
声は虚ろに飲み込まれていく。
「せめて、一思いに……」
こうなる前に、逃げていれば良かったのか。現状から目を背けるように、もしもに思いを馳せる。しかし、あの日あの時に逃げ出す自分が想像できず、ぱちんと夢想は弾けて消えた。救いを求める気持ちに、黒ぐろとしたものが混じる。
たとえあの日に戻れたとしても、生贄に選ばれるような人間であること、それを受け入れる自分であることは、変わらない。
もう渇き切っているはずなのに、涙だけはまだ、こぼれ出た。
「ごめんなさい」
目をつむり、再び祈る。祝詞を唱えていた時よりも真剣に、心から、絶望的に。
「助けて。こんな死に方は、嫌……」
その声を、聞く者があった。
氷菓子を砕くような音が頭上からして、衣織は身を震わせた。
大穴は相当に深く掘られていたはずなのに、その音が響いたのはたった三度。
頭上の木板に、赤みが差す。
開かれた木板から、衣織はそれの姿を見た。
赤々とした夕日に照らされた、異様な輪郭。土に汚れた獣じみた爪、血を塗ったような赤い口。顔を覆い隠す白い蓬髪。その隙間から覗く、黄金の瞳。
「静寂まで奪うか」
それが第一声だった。
「そうはさせぬ。そうはさせぬ。過去が忘れられようと、己が消えようと、これ以上侵させはせぬ」
それは独り言のように言うと、箱の蓋を放り投げて、衣織の視界から外れた。
外に出れた喜びよりも、孤独の中に突然現れたものへの驚きから、衣織は体を起こしてその姿を追った。
使い込まれた着流しに包まれたその体躯は、村外れの老樹のようだった。木々の影が彼を縁取って、その異貌をしっとりと飲み込もうとするのに、完全に一体化することはない。その生命は闇と対等に存在していた。
身震いしながらも、目を離すことができない。
恐ろしいと怯えるには寂しげで、悍ましいと遠ざけるには美しかった。
それが木立の奥に消え、温い風が吹くまで、衣織は茫然自失していた。




