選ばれる
逃げ出さないように、という声が、部屋の外から聞こえた。たぶん奥様の声だった。
夢に落ちかけていた意識を無理やり引き上げて耳をそばだてると、旦那様の声もあるような気がする。ひょっとして、名主様や神主様もいるのだろうか。どこかで聞いた覚えはあるけれど、あまり馴染みのない声もする。
誰だとしても、下女部屋の前に集まるには大人数で、大仰で、ただ事ではない。
その理由には、思い当たることがあった。
なるほど、とうとう決まったのだ。
まだ部屋の外で何やら話している様子だったが、眠ったままでいるのは居心地が悪い。ねばついた眠気を引きずりながらも体を起こして、眼をこすり、服を替えようと思いつく。
神様のところへ行く前に、もっと綺麗な服に着替えるのだろうが、今、何となくそうしたかった。
「衣織、衣織」
ごそごそと支度をしていると、隣でぐっすりと眠っていたはずの同僚に、布を引き裂く時のような声音で名を呼ばれた。
「言っただろ。やっぱりあんただ。早く逃げなよ。何で逃げないんだよ。逃げなきゃ。今ならまだ、間に合うかも知れない」
彼女は、愚図で失敗ばかりする衣織を、叱りながらも奥様や旦那様からさり気なく庇ってくれる、優しい同僚だった。
衣織が生贄の候補になっている、と教えてくれたのも、彼女だった。
「うん……」
うなずきながら、私はやっぱり鈍い、と恥ずかしくなる。自分には、逃げるという選択肢があって、彼女が盗み聞きした話を教えてくれたのは、自分を逃がすためだったということに、今初めて気がついた。仕事と同じように、命じられたら、受け入れるしかないものだと思っていた。
「まあ、でも、いいのよ」
逃げられるとは思えない。この家を出たところで身寄りもない。
それに、どうにも役にも立たない自分が生贄になることで、近頃の冷害や洪水、加えて広まりつつある作物の病害が抑えられるのであれば、ずいぶんと良い人生だと思える。自分を産んで死んだ母も、三つの時に病で死んだ父も、よくぞ役目を果たしたと、褒めてくれるだろう。
――褒めてくれるのでは、ないだろうか。
どちらの記憶もなく、何を喜んでくれる人たちなのか、はっきりとは言えない。喜んでくれたとて、それが自分にとって嬉しいことなのかも分からない。
自信のなさが、ほんの少し手を止めた。逃げた方がいいのだろうか。
その時、下女部屋の戸が引かれた。
「……起きていたか」
火明かりが細く差し込んで、奥様の姿を揺らめかせている。
「衣織。用がある。出なさい」
下女部屋には、意識のある沈黙が満ちている。
「はい、奥様」
結局、着替えが途中で止まってしまった衣織は、上は洗濯したばかりの野良着、下は寝間着のままで立ち上がった。
こんな時まで愚鈍な自分を生贄にしたら、かえって神様に失礼なのではないかと、少し不安になった。




