バートリー男爵
翌朝、目を覚ますと宿の中庭から剣が風を切る音が聞こえてきた。規則正しい呼吸と、鈍い衝撃音が、まだ冷たい空気に混じっている。
窓から覗くと、ライナーとガルドが向かい合い素振りを繰り返していた。
二人は毎朝欠かさず鍛錬を続けている。
その積み重ねこそが、戦場で生き残る理由なのだろう。
ソルフィーユは身支度を整え、中庭へと出た。
「おはようございます。今日も精が出ますね」
「おはようございます、ソルフィーユ様」
「ソルもやるか? 素振り」
ガルドが大剣の柄をこちらへ向ける。
その刃は、ソルフィーユの身長を軽く超えていた。
身体強化を施せば振れなくはない。
だが、この剣を訓練とはいえ振るうことには、どうしても抵抗がある。
「……遠慮しておきます」
「そっか。気が向いたら、いつでも貸してやるぜ」
「ありがとうございます」
短く礼を返し、ソルフィーユは井戸へ向かった。
桶に水を汲み、そのまま顔を洗う。
冬の冷気と井戸水の冷たさが、眠気を一気に追い払った。
昨夜、リュミエルから報告は受けたことを思い出した。
バートリー男爵の屋敷へ手紙を届けた件だ。
最初は、聖女の名を使った不審者として警戒されたらしい。
だが、男爵とリュミエルには面識があり、最終的には手紙を直接受け取ったという。
日が昇りきる頃、朝食を取るため、リュミエルと連れ立って屋台へ向かった。
手軽なサンドウィッチを買い、石垣に腰を下ろす。そして自然とバートリー男爵の話題になる。
「バートリー男爵……明らかに動揺していました」
リュミエルが噛みしめるように言う。
「ソルフィーユ様が来ると伝えても、終始、信じられない様子でした」
「ペルジーオの門兵にも知らせずに入っていますからね」
ソルフィーユは淡々と答える。
「男爵が知らなかったのも、無理はありません。ですが……よい布石にはなったかもしれません」
「布石、ですか?」
「ええ」
ソルフィーユはサンドウィッチを一口かじり、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私、違法な奴隷オークションに関わるような貴族を、信用できませんから」
リュミエルの視線が、わずかに強まる。
「それに――私は以前『聖女が奴隷オークションに参加していた』という証言をされました。その結果、異端審問官に連行され、監獄塔へ連れて行かれたのです」
淡々とした口調とは裏腹に、その内容は重い。
あの場、地下の違法奴隷オークションにいた者たちは、戦闘が始まると一斉に逃げ出した。
目撃者など、いないものだと考えていた。
だが、考えが甘かったのかもしれない。
認識阻害の仮面は着けていた。
それでも、ナスター=ヘスペリアとの会話を聞かれていれば、変装の下にいるのが誰か、察する者がいてもおかしくはない。
まして、ハイエルフの子供を競り落とした一件がある。
恨みを買っていたとしても、不思議ではなかった。
「……つまり」
リュミエルが静かに言う。
「バートリー男爵が、その証言を戒律院や異端審問官に流した可能性がある、と」
「ええ。そう考えれば、辻褄は合います」
ソルフィーユは頷いた。
「だからこそ、先触れを渡したときの男爵の挙動を聞いたとき、だいたい察しました。それは――心当たりのある人間の反応です」
ほんのわずか、唇に笑みが浮かぶ。
「今日、彼と会うのが楽しみです」
▽
昼時。太陽が山々を照らし、澄んだ光が丘の上の屋敷を際立たせていた。
聖衣を纏ったソルフィーユと、礼服姿のリュミエルを乗せた馬車が、バートリー男爵邸の門前で止まる。
扉が開くと同時に、白髪の老執事が一歩前に出た。背筋は伸び、所作に無駄がない。
「よくお越しくださいました、聖女ソルフィーユ様」
「突然の訪問にもかかわらず、ご対応いただきありがとうございます」
「バートリー男爵様は貴賓室にてお待ちです。お食事もご用意しておりますので、どうぞごゆるりと」
「あら……お気遣い、痛み入ります」
「すべて男爵様の意向にございます。こちらへ」
庭を抜け、重厚な玄関扉が開かれる。
中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
高く吊られた大きなシャンデリア。
靴が沈むほど厚い絨毯。
壁には高価と分かる絵画が並び、花瓶には手入れの行き届いた花が飾られている。
誇示ではない。
だが、隠そうともしていない。
これだけの財を持ちながら、男爵止まり……。
奴隷オークションで聖金貨を投じられる男。
鉱山資源を抱え、交易都市を支配する領主。
それでも昇爵していない。
理由がないはずがない。
考えを巡らせているうちに、執事が一つの扉の前で立ち止まった。
控えめなノック。
「聖女ソルフィーユ様が、いらっしゃいました」
わずかな間の後、低く通る声が返る。
「――入りたまえ」
扉が開く。
室内は豪奢でありながら、過度ではない。
選ばれた調度品が整然と並び、趣味と計算が同居している。
そして――視線が合う。
男は椅子に腰掛けたまま、微動だにしない。
「――はじめまして。ソルフィーユと申します」
一歩、優雅に進み出る。
「アルドリック=ヴァン=バートリーだ」
名乗る声音は穏やか。
だが、その奥に、相手を量る冷たい響きが混じっていた。
執事に案内され、ソルフィーユは男爵と向かい合う席に腰を下ろす。
リュミエルは一歩後ろに控え、静かに立つ。
「大聖都ミレニアから遠路はるばる。連絡を頂ければ、こちらから迎えに上がったものを」
「お気遣い感謝いたします。ですが、事情がありましたので」
「……そうか」
一瞬だけ、男爵の視線が揺れる。
「軽い食事を用意した。摘まみながら話そう」
「ええ、ぜひ」
食事が運ばれる。
話題は無難だった。
大聖都の近況、聖女の公務、聖庁の様子。
どれも探り合いにすらならない整った会話。
だからこそ、ソルフィーユは静かに話題を変えた。
「そういえば、あまり見かけない魔物に遭遇しました」
男爵の指先が、わずかに止まる。
「……見かけない魔物、か。上位種なら鉱山付近や森に多いが。変わった報告は聞いていない」
「巨体で腹部が口になっており、異常な再生能力を持っていました」
男爵の眉が、ほんの僅かに動く。
「それは危険だな。近隣の村が危うい。私兵に調査させよう」
「ありがとうございます」
ソルフィーユは頷き、間を置く。
「それと……周辺の村で、子供が失踪していると聞きました」
沈黙。
男爵の喉が、小さく鳴った。
「……数年前からだ。子供が攫われている。誰の仕業かは分からん。私兵も動かしているが、ペルジーオを守るだけで手一杯だ。力不足を痛感している」
攫われている。
その言葉を、ソルフィーユは逃さなかった。
「ご家族のお話を伺い、胸が痛みました。大聖都へ戻り次第、魔物討伐と失踪事件について掛け合ってみます。私の権限で、騎士団か聖騎士を動かせるかもしれません」
「そ、それは……」
男爵の声が一瞬詰まる。
「あ、いや……ありがたい申し出だ。本来なら私が嘆願すべきことだが、ぜひお力を借りたい」
額に滲む汗を、男爵は袖で拭った。
「数日、滞在されるのか?」
「はい。教会で祈りを捧げ、聖庁へ報告もいたします。それと、鉱山も見学する予定です」
男爵の呼吸が、わずかに浅くなる。
「聖庁に……報告、か」
「ええ。公務ですので」
「……そうだな」
笑みを作るが、目が笑っていない。
「本日は有意義でした。出立前に、改めてご挨拶を」
「あいわかった。どうか、ペルジーオで英気を養ってくれ」
――屋敷を出た後、用意された馬車の中で。
「リュミエル」
「はい」
「バートリーは黒です」
「……あの会話だけで、ですか?」
「失踪としか伝わっていないはずです。ですが彼は、攫われている、と言った」
ソルフィーユは静かに続ける。
「犯人の存在を前提にしている。知らなければ出ない言葉です」
「ですが、それだけでは関与の証拠には……」
「証拠はありません」
視線を窓の外へ向ける。
「ですが、騎士団や聖騎士の派遣、聖庁への報告を口にした瞬間。視線が泳ぎ、呼吸が乱れ、汗が増えました」
あれは恐怖だ。
バートリー男爵の精神が手に取るようにわかる。
「王国側に踏み込まれたくない理由があるのかもしれません」
鉱山。
採石場。
あの男が、あそこに触れられたくない理由。
馬車の窓越しに流れる山々を見つめながら、ソルフィーユは静かに目を細めた。




