歪んだ欲望と歪みを断つ刃
村の入り口で、月下の牙と村民たちが必死の攻防を繰り広げている頃。
ソルフィーユは教会内に集まった人々を癒して回り、奇跡の光で不安を取り除いていた。
外から届く怒号や魔物の叫びによって、避難して来た人々の不安が完全に消えず、震える者も少なくない。
それでも、目の前で示される聖女の姿に安堵し、ソルフィーユは聖レイディア教の威信そのものを、静かに演じてみせる。
無神論者であるサイファにとって、神の教えとは人を操るための道具ではあるが、この世界の住人にとって宗教は慣れ親しんだものであり心の拠り所でもある。
その力を理解した上で私は奇跡を巧みに操り、場の空気を和らげていた。
そんな折、ゲイズに呼び止められ、教会内部の調理室へと連れて行かれる。
「ご用件は何でしょうか。まだ怯えている方もいます。手短にお願いいたします」
ゲイズは、私を見下ろすようにして口を開く。
「奇跡は、そう何度も使うものではない。聖女の神力には限りがある」
その言葉で理解した。
ソルフィーユの神力と魔力について親切に教える必要もない。
「ご心配には及びません。使ったのは最小限の神力だけです」
「だが、下々の人間に安易に神力を使えば、いざという時に、大きな奇跡を行使できなくなる」
「……恐らく、そのような機会は訪れません」
レオナール国王やレイディア教皇の言動から、三大奇跡以外に何かを求めている気配は感じ取れるが、現段階ではまだ判断できない。
「それも聖女が生きてこそだ」
ゲイズは結論を告げるように言った。
「申し訳ないが俺と来てもらう」
――次の瞬間、ソルフィーユは腰を抱えられ持ち上げられる。
体重が軽く抵抗できずに、そのまま教会の裏庭へと連れ出され、抱きかかえられたままゲイズが乗ってきた馬の背に乗せられた。
「何をするのですか!」
「ここは終わりだ。俺たちだけでも脱出する」
「村民や仲間たちが、まだ戦っています! 見殺しになどできません!」
だが、ゲイズは何も答えず馬を走らせた。
揺れる馬上から見えるのは村に蠢く魔物の群れ。
魔物の声と怒号が混じり合う声が、この村が置かれた危機的状況を何より雄弁に物語っていた。
「ゲイズ。何が目的なのですか?」
「喋ると舌を噛むぞ」
村の方角に見えていた松明の灯りが次第に小さくなり、十分に距離を取ったところでゲイズは手綱を強く引き、ようやく馬の足を止めて地に降り立つ。
「ここなら安全だろう。このまま、バートリー男爵の住むペルジーオの町へ向かう」
「……そこへ行って、どうするのですか」
「決まっている」
ゲイズは、当然のことのように言った。
「正式に、俺と聖女の聖騎士契約を結ぶ。俺が聖女の専属となり、次期聖騎士本部長になるのだ」
「……契約、ですか」
「そうだ」
ゲイズはもはや欲望を隠そうともせず、妄想は歯止めなく膨らみ、聞いているこちらの背筋にまで寒気が走る。
「最低ですね」
私は静かに言った。
「あなたは聖騎士としての本分を理解していない。聖騎士とは、そんな俗に溺れる存在ではありません」
「……俺は、死に物狂いで務めを果たしてきた」
ゲイズは歯を食いしばり、拳を強く握る。
「それでも俺に回ってくる仕事といえば、聖騎士本部の門番や、貴族の馬車の護衛ばかりだ。そんな役目、衛兵にでもできる!」
抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出す。
「メルドラから、聖女護衛の話が来た時……ようやく、俺の時代が来たと思った! それなのにあのヴァルディスが話をなかったことにしやがった! 許せるはずがない!」
――その件は断った話だ。
ヴァルディス本部長はゲイズに伝えていなかったのか?
「聖女を連れて帰ればメルドラから褒美も昇進も思いのままだ。そうすれば、ヴァルディスの席を奪ってやれる!」
「……はぁ」
思わず溜息が漏れた。
「そんな野心など抱かなければ、こんなことにはならなかったのに」
「……ん?」
その一瞬でソルフィーユの口調が変わった。
月明かりに照らされた銀色の髪が、淡く光を反射し、わずかに虹色を帯びる。
だが、その瞳は暗く表情は影に沈んで見えない。
――何かが違う。
ゲイズは、自分の体の奥底から初めての感情が芽生えるのを感じると小刻みに手が震える。
「わざわざ、こんな遠くまで馬を走らせて……」
ソルフィーユの声は静かで、それでも地中の底から響くようだった。
「戻るまでにかなりの時間がかかる。村に――村民に、仲間に被害が出たら……、お前はどう責任を取るつもりだ?」
「な、なんだ……?」
突風が吹いたかのように、二人を囲んだ林がざわりと揺れる。
影に紛れていたソルフィーユの表情が月明かりに晒された。
冷たく、暗い、突き刺すような視線が恐怖をさらに膨らませ、ゲイズの瞳に聖女ではない何かを映し出す。
「せ、聖女……だよな? 聖女ソルフィーユ……」
「ああ、そうだな」
淡々と肯定する。
「私は聖女ソルフィーユだ」
その瞬間。
袖口から一振りのナイフが滑り落ち右手に収まった。
洗礼された機能美の刃。
ソルフィーユの手と体躯に合わせた唯一無二のナイフが月光に染まる。
「お前のような人間がいるから世界は歪む。そして――ソルフィーユは安心して生きられなくなる」
「な、何を言って――」
――黒焔纏。
低く呟かれたその言葉と同時に、ゆらりと黒い炎が全身を包み込む。
「お、お前は……な、何者だ……!?」
「私は、聖女ソルフィーユであり――」
一歩、距離を詰める。
「サイファ。ソルフィーユの『やりたいこと』を邪魔する者を、排除するための刃だ」
ゲイズは、反射的に腰の剣を抜き放ち、身体強化を発動させた。
ソルフィーユは姿勢を低くし、影を滑るように走り出す。
剣がぶつかる音が夜の林に短く響く。
ゲイズの剣は重い。
身体強化によって振るわれる一撃は、確かに速く力もある。
だが――直線的、踏み込み、横薙ぎ。
それだけで、間合いのすべてを埋めたつもりになっている。
ソルフィーユは一歩、半身をずらす。
剣先が黒焔を掠めて空を切った。
「くっ……!」
返す刃は来ない。
来ないからこそゲイズは焦る。
もう一歩踏み込み、斬り上げる。
金属音。
ナイフが剣の腹を軽く弾いた。
――重さを殺す。
次の瞬間、ソルフィーユは懐に入っていた。
「なっ――」
三合も交えたかどうか、ゲイズの剣がわずかに遅れたそのわずかをソルフィーユは逃さない。
黒焔を纏った身体が滑るように回り込むと、視界の端で銀の軌跡が閃いた。
ザリ、と。
鈍い感触。
次いて遅れて走る激痛。
「――あ、ぁ……?」
地面に落ちたものを、ゲイズは理解できなかった。
それが自分の耳だと気づいたのは、血が頬を伝い落ちてからだ。
「ぎ、ぎゃああああっ!!」
叫び声が渇いた夜を裂く。
ソルフィーユはすでに間合いの外に立っており、ゲイズに冷たい視線を送っている。
ナイフの刃先から赤い雫が一つ落ちる。
「今ので分かっただろう」
ソルフィーユの声は冷たい。
「お前の剣は聖騎士のものではない。愚かな野望に溺れ、自ら運命を閉ざした――、それだけだ」
耳を押さえて膝をつくゲイズを、ソルフィーユはただ、処理対象として見下ろしていた。
「ひ、ひゃあああぁぁぁぁ!」
悲鳴を上げ、足をもつれさせながら、ゲイズは林の中へと飛び込む。
逃げる先はバートリー男爵の住むペルジーオの町――、そう考えたのだろう。
だが追わない。
追う必要がなかった。
ゲイズの気配が闇に溶けた頃、今度は村の方角から、馬の足音が近づいてくる。
「ソルフィーユ様! ご無事ですか!?」
「ご心配をおかけしました。この通り私は無事です」
「良かった……本当に、心配しました』
リュミエルに安堵の表情が浮かぶ。
よっぽど心配していたのだろう。
「そう言えば、ゲイズはどこですか?」
「逃げました。ですが、放置して問題ありません。……ところで、リュミエルはよくこの場所が分かりましたね」
「はい。『視えて』いましたから」
そう言って、リュミエルの瞳が淡く輝く。
「……力は使っていませんね?」
「はい。言いつけは守っています」
「それなら結構です。戻りましょう。皆が心配しています」
ソルフィーユは、ゲイズが乗ってきた馬に跨ると、
大量の魔物に襲われている村へと踵を返した。
▽
ソルフィーユが立ち去ってから数分後。
ゲイズは、全身を覆う嫌悪感と寒気に襲われ、もはや歩くことすらままならない状態に陥っていた。
呼吸は浅く、胸が締め付けられる。
視界は歪み、天地が回転する。
胃の奥から、激しい吐き気が込み上げた。
「ぐ……ぐるじい……た、だず……げ……」
それは、刃に薄く塗られていた劇物。
耳の傷口から毒が全身に回ると、ゲイズは口元から泡を吹き、走馬灯のように明滅する記憶をただ受け入れる。
誰にも見つからぬまま――
夜の林の中でもがき苦しみ、やがて静かになった。




