檻の外へ
大聖堂ミレニアの南門を出てからすでに一時間は経過しているだろう。
振り返れば、あれほど大きく雄大に見えた都市も、今では遠く霞み小さく見える。
見知らぬ土地へ踏み出した高揚感を胸の奥に押し込み、ソルフィーユは幌馬車に身を預けた。
馬車はゆっくりと揺れながら進んでいく。
二頭引きにしては控えめな速さだが、長旅を考えれば馬に無理をさせない妥当なペースでもある。
御者はライナーが主だが、リュミエルと交代制で手綱を握っている。
これから向かう領地へ続く街道は、決して整備が行き届いているとは言えない。
ところどころに穴が空き、岩が転がり、馬車にとっては難所が続く。
そのたびにバロックが土の精霊魔法を使い、地面をならして進んでいた。
「毎回思うけどさ、樽爺は土木の仕事のほうが向いてるんじゃない?」
「冒険者を辞めたら、鉱夫に戻るかの」
「バロックはもともと鉱夫だったのですか?」
ソルフィーユが尋ねる。
「そうじゃ。ワシはここより遥か北――商業国家連合の一つ、ドワーフが多く住む国、ダンターレで鉱夫をしておってな。まあ……色々あって、こうして冒険者をやっとる」
それ以上は語らない。
理由はそれぞれだが冒険者という職を選ぶ者の多くが、過去を詳しく話そうとしない。
「商業国家連合は聖王国とも取引がありますが……友好な関係なのでしょうか?」
「表向きは、な」
バロックは顎髭を撫でながら答える。
「商人の国じゃ。裏で武器を流し、戦争を操っとるという噂もある。帝国や小国同士の争いが、ここ数年で増えたのも偶然ではあるまい」
少し間を置いて、バロックは言葉を続けた。
「戦争が起きて、一番儲かる国がどこか……言わんでも分かるじゃろい」
「……そうですね」
ソルフィーユはそれ以上、言葉を重ねなかった。
どこの世界も結局は同じだと、サイファとしての記憶が呼び起こされる。
戦争が起これば多くの命が失われる。だがその裏側で、血の匂いを嗅ぎつけ、金を生み、笑う者たちが必ずいる。
生前、武器商人を暗殺したこともあるし、傭兵部隊の指揮官を消したこともある。
戦争を止めるためだったのか、拡大させるためだったのか――今となっては自分でも分からない。
正しい答えなど今更考えたところで意味はなさないと理解している。
図書館にあった歴史書によれば帝国は侵略を重ねて巨大化した国。
それに対抗するため商業国家連合は複数の国が手を取り合って生まれた。そう記されていた。
遠い国だ。
だが、決して無縁ではない。
もし機会があるのなら。
自分の目で見てみたい――そんな思いが胸の奥に静かに芽生えていた。
幌馬車は変わらぬ速度で進む。だが、進む先にある世界は、決して穏やかなものばかりではないだろう。
「――ソル」
名を呼ばれソルフィーユは顔を上げた。
どうやら深い思考に落ちていたようだ。
「はい、なんでしょうか?」
彼の視線は後方に向いている。
「大聖都を出てからずっとつけられている」
私は幌馬車の縁に手をかけ、静かに身を乗り出した。軋む車輪の音の向こう、砂煙の奥に付かず離れず距離を保つ一団がいる。馬車が一台、それを囲むように馬に跨った数名の影。
「行商では?」
「それはどうかしら?」
ソルフィーユがそう言うとすぐにセレナの否定が返ってきた。
セレナが幌馬車から半身を出し目を細めて遠方を見据える。
「護衛を雇えない商人や旅馬車が、他の一団にくっついて移動することは珍しくない。でも――」
彼女は一拍置いた。
「向こうの方が人数が多い。それに、武装しているのが見えるわ」
「……見えるんですか?」
思わず聞き返すと、セレナは軽く肩をすくめた。
「まぁね」
張り詰めた空気を切るように、前方から声が飛んできた。
「日暮れまでには宿場町に着く。なんとか野宿は避けたいな」
手綱を握るライナーの声は落ち着いているが、微かに急いでいるのが分かる。
「ソルフィーユ様、こちらから仕掛けますか?」
リュミエルの問いに私はすぐに首を横に振った。
「流石にやめましょう。相手が本当に行商の一団で、たまたま同じルートを進んでいるだけなら問題になります」
一瞬の沈黙。
「……わかりました。今は様子見ですね」
幌馬車は速度を変えず、同じリズムで進み続ける。背後の視線だけが静かに張りついたままだった。
――夕焼けが山脈の稜線を朱に染め始めた頃、ソルフィーユ一行は宿場町へ辿り着いた。
南ディオール地方を行き交う旅人や商人のために形づくられた町で、通りには宿屋の看板が並び日暮れとともに灯りが入り始めている。
生業の中心は宿泊業らしく、その幅は広い。藁寝台だけの安宿もあれば、金貨を払わなければ泊まれない上等な宿もある。懐具合と身分に応じて、選択肢だけは豊富だとライナーから教えてもらった。
ライナーは情報収集も兼ねて酒場を併設した宿屋を提案した。
「わかりました。そこにしましょう。馬車置き場も近いですし、馬を預けられるのは助かります」
「おし、ワシが馬と馬車を預けてくる」
「俺たちは先に宿とテーブルを押さえよう」
バロックが手綱を引いて離れ、残りはライナーの案内で宿屋へ向かった。
手続きは拍子抜けするほど順調で二部屋を確保できた。男女は分かれての宿泊だ。
荷物を部屋に置き酒場へ降りると、すでにライナーとガルドが卓を占領していた。
杯は空になりかけ、料理も半分ほど消えている。
「遅かったな」
「あんたら、一日目から気が緩みすぎじゃない?」
「旅は始まったばかりだ。しっかり疲れを取って、鋭気を養おうぜ」
顔を赤くしたライナーがそう言う隣で、ガルドは骨付き肉にかぶりついている。
「ここの飯はウメェな。やっぱ聖王国内の料理は、どこもウメェ」
「月下の牙の皆さんは、ずいぶんマイペースなのですね〜」
リュミエルが柔らかく微笑むと、セレナは肩を落とし、半ば呆れた声で言い返した。
「こいつらと一緒にしないで」
ソルフィーユたちは空いている席に腰を下ろし、それぞれ好みの料理と酒を注文した。
「おう、始まっとるな」
少し遅れて、バロックが姿を見せる。
「ワシもエールを頼む」
ウェイターに声をかけると、ライナーの隣へとどかりと腰を下ろした。
「バロック、どうだった?」
「十中八九、ワシらを追っとる連中じゃろうな」
「やっぱりか」
その一言で、先ほどまでの陽気な空気が、静かに冷えていく。
「奴らの目的はわかったか?」
「いんや。ただな……」
バロックは酒が入ったジョッキをウェイターから受け取り、一呼吸置いてから続けた。
「向こうもワシらの戦力を測っとる。今は様子見じゃ。今夜は動かん」
ライナーの問いに長年の経験から導いた結論を返す。
「となると――」
ライナーは卓の上の皿を雑に脇へ寄せ、地図を一枚広げた。何度も折り畳まれたそれには、手書きの線や書き込みが幾重にも重なっている。
「バートリー男爵領に入る直前、この森が一番危険だ」
指先が地図をなぞる。
「ここ、とここ……最短ルートだが、相手の動きを考えると、回り込まれて挟み撃ちにされる可能性が一番高い」
「そうね。……で、どうする?」
「決まってるじゃねぇか」
ガルドが、ほぼ骨だけになった肉を右手に掲げる。
「向かってきたら蹴散らす!」
「はぁ……」
セレナが深く息を吐く。
「脳筋って、本当に困るわ。聖女様、何か案は?」
視線が集まり、ソルフィーユは短く答えた。
「相手の意図は不明ですが、襲ってくるのであれば正当防衛です。手加減する必要はないでしょう」
「……ここにも脳筋がいたわ」
セレナが頭を抱えた、そのタイミングで注文していた料理が卓に運ばれてくる。
香り立つ料理と酒が並ぶ中、誰もがそれ以上の議論を口にしなかった。
――酒場に入ってきた男たちが、追ってきている者だと分かったからだ。
……ライナーの言う通りだ。今は鋭気を養う時。
いずれ訪れる襲撃に備えて――。




