左翼塔から眺める景色
騒がしくなり始めた信託院を後にし、ソルフィーユたちは一度、大聖堂へ戻ることにした。
あの場に留まれば、「聖女がいたから不吉な神託が降りた」などと、いくらでも難癖をつけられる。
実際、記録官たちの視線は落ち着きを失い、時折、値踏みするようにこちらを窺っていた。
まるで、厄災そのものを見るかのように。
「……変な空気でしたね」
馬車の中で、リュミエルが小さく息を吐いた。
「最初は特に問題なさそうでしたけど、あの神託……少しポンコツじゃありませんか? 本当にあんなので、聖女選定なんてできたのでしょうか」
「聖女選定に関しては、百発百中らしいですよ。まあ……孤児だった私を探し当てたのですから、その点は事実ですね」
軽く返しながらも、ソルフィーユの意識は神託の杯に残っていた。
あれは侮れない。
いつ、どんな神託が降りるのか分からない。
だが同時に、先ほどのように歪んだ形で現れることもある。
精度に疑問は残る。
だが、それでも――、本来の意味では間違いなく神具なのだろう。
「私たちの知らないところで、何かが起きているのは確かですね。しかも、この国の頂点にいる人たちは、それを知っている」
レオナール国王。
そして、アルヴァス教皇。
少なくとも、この二人は把握している。
だが、問い質す手段はない。ならば今は――、外に出て、動きながら見極めるしかない。
大聖堂へ戻ると、ソルフィーユは気分転換も兼ねて展望台へ向かうことにした。
聞けば街を一望できるほど、見晴らしが良いらしい。
西翼にある古い階段を登る。長年使われてきた石段は、わずかにすり減り、歴史の重みを感じさせた。
そのとき。
ふいに、風が吹き抜けた。
下から、上へ。まるで階段そのものが、息を吐いたかのように。
(……?)
この場所から外気が入り込むはずがない。
それなのに、確かに風はあった。
(そういえば……)
脳裏に浮かぶのは、以前ノワレ司書長とリュミエルが話していた、大聖堂の七不思議。
――西翼、アークウィンドの階段。
理由もなく風が吹き抜ける場所。
精霊の通り道だと囁かれている場所。
足を止めると、不思議な感覚が肌を撫でた。
どこか、アルシェルの使う精霊の流れに似ている。
目には見えない。だが、確かにそこにある。
この感覚こそが噂を生み、七不思議として語られるようになったのだろうか。
ソルフィーユは何も言わず、ただ静かに階段を登った。
そして、最上段に辿り着いた瞬間――、視界が開け、鳥たちが一斉に羽ばたいた。
「……おお」
思わず、声が漏れる。
大聖都ミレニアを見下ろす景色は、想像していたよりも広く、鮮やかだった。
白い街並みの向こうに緑が連なり、さらにその先には、空と地平が溶け合っている。
「……ソルフィーユ、見えているか」
胸の奥で、響かせるように伝える。
「この景色は、まだ見たことがなかっただろう。これから私たちは、この小さな檻の外へ出る。もっと多くのものを見て、もっと多くのことを経験するんだ」
ソルフィーユが、かつて夢見ていた外の世界。
淡い夢だったが、やりたいことは確かにあった。
言葉にしづらいものも多かったが、サイファからすれば取るに足らない。生きていれば、きっと自然と触れ合える類のものだ。
――どれほどの時間、景色を眺めていただろうか。
気づけば、うとうとと眠っていたらしい。
視線を落とすと、鳥たちが寄り添うように集まり、共に眠っていた。
こんな穏やかな一日が、どれほど久しぶりだろう。
だが。
聖女の使命というものは、本来、この穏やかさとは程遠く、生と死の狭間に立たされ、力を搾り取られ、道具として消費される運命。
それでも。
少しずつだが、確かに何かが変わり始めている。
大聖都ミレニアを巣食う闇の組織を潰した。
次は、汚職地方貴族か――、それとも。
ソルフィーユは、再び空を仰いだ。
鳥たちはすでに飛び立ち、それぞれの行き先へ向かっている。ソルフィーユとサイファの旅は、もう始まっていた。
▽
時は一日遡る。
ソルフィーユたちが聖騎士本部を後にした直後、ゲイズ=ノイマンは、ヴァルディス=ヴァン=ディオルクの執務室に呼び出されていた。
「……聖女護衛の件だが」
ヴァルディスは書類から視線を上げることなく、淡々と告げる。
「今回の任からは外れてもらう」
一瞬、耳鳴りがした。
「――どうしてですか、ディオルク様!」
思わず声が荒くなる。
「決まったことだ」
「メルドラ宰相の命令ではなかったのですか?」
「命令ではない。あくまで提案だ。聖女自身が拒否した以上、我々が介入する理由はない」
「ですが、冒険者などに任せるなど――!」
「事実として、彼女は既に冒険者と正式な契約を結んでいる」
ヴァルディスはそこで初めて視線を上げ、冷ややかに言い放った。
「これ以上、議論の余地はない。持ち場に戻れ、ゲイズ」
ゲイズは歯を噛み締め、深く一礼することもなく踵を返した。
執務室の扉が閉まった瞬間、拳が震える。
(……ふざけるな)
金鎖の元副団長。
その肩書きが脳裏を掠める。
(あの男が、聖騎士本部長だと?)
ゲイズは聖騎士として十年を過ごしてきた。
血も流し、剣も振るってきた。
それなのに、自分より年下の者たちが次々と上へ行く。
(不公平だ……)
ディオルクも、かつては自分が鍛えた相手だった。
少し厳しく、少し強く指導しただけだ。
(……あのことを恨んでいるのか?)
だが、面と向かって抗議する勇気はない。立場も、実力も、今は向こうが上で、下手に手を出すわけにはいかない。
数ヶ月前に勝手な行動をして処罰されたリュミエルを、内心で嘲っていた自分がいる。
そして、リュミエルがコケたことによって、ようやく巡ってきた身分ある者の護衛。
将来が見えた気がした矢先、それは白紙に戻された。
(……冒険者だと?)
どこの馬の骨とも知れぬ連中に、聖女を任せるなど冗談ではない。
(ならば、証明すればいい)
自分が正しかったと。
自分こそが必要だったと。
ゲイズは足早に本部を後にし、古い酒場の扉を押し開けた。
「よう、ゲイズ。久しぶりだな」
「聖騎士様はお忙しそうで羨ましいぜ」
「そんな楽な仕事じゃない」
椅子に腰を下ろし、酒を煽る。
「今にもストレスで禿げそうだ」
「最初から禿げてるだろ」
笑いが起こる。
一瞬、立ち上がりかけたが、ゲイズは舌打ちをして腰を下ろした。
「……儲け話を持ってきた」
場の空気が変わる。
「話せよ」
ゲイズは身を乗り出し声を落とす。
「近々、大聖都から出る女がいる。馬車を襲え」
「お前は?」
「俺が助けに行く」
仲間の一人が眉をひそめる。
「……意味がわからねぇ」
「お前たちは奪って暴れればいい。深追いはするな。俺が来たら退け」
「危害は?」
「女以外始末して構わない。見せ場は俺が作る」
一瞬の沈黙。
ゲイズは懐から袋を置いた。
「前金だ。成功すれば倍払う」
袋の重みを確かめ、男たちは顔を見合わせる。
「……聖騎士様は太っ腹だな」
「やるぞ」
杯が打ち鳴らされる。
ゲイズは酒を飲み干しながら、胸の奥でざわつく不安を押し殺した。
(問題ない。冒険者など、所詮その程度だ)
空になった木製のジョッキをテーブルに打ち付ける。
(俺が救えばいい。そうだ、俺が聖女の聖騎士になるんだ)
聖女ソルフィーユの横に立つ、己の姿を妄想しながら酔いしれた。




