神託院の神具
月下の牙との約束の日までは、まだ時間がある。
ふと、王の間で交わされた言葉が脳裏をよぎった。
――神託の書。
これから起こる出来事が、自動的に記されるという神具の一つ。
ソルフィーユ自身は、これまで一度も目にしたことはない。だが、ある程度の地位があれば閲覧できる――、そんな曖昧な記憶が残っていた。
「今日は、信託院へ行こうかと思います」
「目的は……神託の書、ですか?」
リュミエルが即座に察し、そう問い返す。
「はい。王の間で出てきた話――、神託に記された聖女や、儀式について。どうにも不明な点が多すぎます」
「確かに、そんな話をしていましたね。そもそも儀式というのは、三大奇跡を発動するためのものだと聞いたことがあります」
「『大豊穣の奇跡』『不老の聖杯』『神の炎』……ですね」
指折り数えながら、ソルフィーユは言葉を続ける。
「噂では、レオナール国王は“不老の聖杯”を授かったとも」
「そうですね。現に、レオナール国王陛下は二百年以上、生きておられます」
「……そんなに」
一瞬、言葉に詰まる。
「それは知りませんでした」
「他にも、アルヴァス教皇様も同じく長命です。ですから、恐らく――」
リュミエルは言葉を濁した。
だが、意味は十分すぎるほど伝わっていた。
聖女の命を代価に、権力者が生きながらえている。
聖女の力は、他国にとって抑止力であり、同時に奪う価値のある標的でもある。
それなのに――。
なぜ、大聖都ミレニアの外へ出す許可が下りたのか。
その判断が、どうしても噛み合わない。
(……理由はわからない。でも)
王と教皇が口にした「儀式」。
それが、この矛盾の中心にあるのは間違いない。
「準備が整い次第、信託院へ参りましょう」
「かしこまりました」
短く交わされた言葉の裏で、
ソルフィーユの胸には、静かな確信が芽生えつつあった。
――知らされていない何かがある。
▽
聖女用の豪奢な馬車が信託院の前で止まると、詰めていた衛兵たちが一斉に背筋を伸ばし、揃って敬礼した。
扉が開かれ、中にいるのが女性だけだと分かると、即座に一人が前へ出て、丁寧な所作で手を差し伸べる。
「私が……エスコートされて良かったのですか?」
小声で問いかけると、隣のリュミエルが微笑を浮かべた。
「いい経験だと思いますよ。戒律院や騎士団本部が、そういった対応をしなかった方が例外です」
確かに、馬車を見れば誰が乗っているかなど一目瞭然のはずだ。
それでも戒律院や騎士団本部では、敬礼もなければ案内もなかった。ただ用件を済ませるだけの、露骨なまでの放置。
(……国王や教皇が来れば、きっと態度は一変するのでしょうね)
そんなことを考えながら、差し出された手を取り、馬車を降りる。
「聖女ソルフィーユ様、ようこそお越しくださいました。本日は神託の書の閲覧をご希望と伺っておりますが」
声をかけてきたのは、頭頂部がやや寂しくなった年配の神官だった。
その物腰は柔らかく、しかし一切の無駄がない。
「はい。恥ずかしながら、神託の書をまだ一度も拝見したことがなく……」
「そうでしたか。それでは、こちらへご案内いたします。お連れの方も、どうぞご一緒に」
神官は一礼し、信託院の内部へと導く。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
高い天井、光を柔らかく反射する白い石壁、繊細な装飾が施された柱の列。
静謐でありながら、どこか張り詰めた気配が漂っている。
「……凄いですね」
思わず、リュミエルが声を漏らした。
「私も信託院に来るのは初めてですが、内装がとても美しいです」
「ありがとうございます。数年に一度は改修を行っておりますので、常にこの状態を保つよう努めております」
神官は淡々と答える。
「神託の書を管理するためだけに、これほどの施設を?」
ソルフィーユの問いに神官は足を止め、わずかに振り返った。
「はい。神託の書は、我々にとって未来そのものですから」
その言葉は静かだったが、不思議な重みを帯びていた。
いくつもの重厚な扉を潜り、さらに地下へと進む。
陽の光は完全に遮断され、通路を照らすのは魔道具による人工の光のみだ。白く冷たい灯りが、石造りの壁に歪んだ影を落としている。
空気が重い。
音が吸い込まれるように消えていくこの場所は、祈りの場というより、封印に近い。
「こちらが、神託の書です」
神官の声に導かれ、視線を向けた先。
台座の上に鎮座していたのは、幅一メートルを超える巨大な“杯”だった。
それは本ではなかった。
金属とも石ともつかぬ素材で作られた、杯。
装飾は最小限だが、見る者の意識を否応なく引き寄せる異質な存在感がある。
「神託の書と聞いて、一冊の書物を想像していましたが……杯、なのですね」
思わず口にすると、神官は小さく頷いた。
「ええ。この“杯”は、人の内にある『器』を模したものとも言われております」
(器……)
ソルフィーユは無意識に自分の胸元へと意識を向ける。
自身が宿している“器”と、この杯は、似ているようでどこか違う。
だが、目の前のそれが本物であることだけは、疑いようがなかった。
「では……中をご覧ください」
促されるまま、杯の縁へと近づき、内部を覗き込む。
杯の中には、並々と液体が満ちていた。
水のようで、水ではない。光を反射し、わずかに脈打つような揺らぎを見せている。
その表面には――、文字があった。
無数の文字が、まるで生き物のように漂い、沈み、浮かび上がっている。
「……これが、神託?」
リュミエルの間の抜けた声が、静寂を破った。
「正確には、神託のなりそこない、です」
神官は淡々と告げる。
「まだ意味を持たない、未整理の言葉。やがて文字が自ら動き、文を成し、その瞬間に神託となります」
杯の液面がわずかに沈むと、空気がひやりと冷える。
「――ほら。今から、神託が降ります」
その言葉と同時に、散らばっていた文字が動き出した。
引き寄せられるように、絡み合い、整列し、ひとつの文を形作っていく。
『■■秩序の塔、■■■崩壊するとき■■■、■■を通して門が開く。■■は聖騎士の使命を果たし、嘆きの先に聖女は地に伏せる』
「……っ」
記録係の間にざわめきが走る。
神官の顔色が目に見えて変わった。
「これは……これから起こる、出来事なのですか?」
ソルフィーユの問いに、神官は重く頷く。
「はい。秩序の塔、門、聖女様――、いずれも、極めて不穏な兆しです。もし、この神託が成就するならば……一大事となりましょう」
杯の中の文字は、再びゆっくりと散り、液体の奥へと沈んでいく。
まるで、何事もなかったかのように。
ソルフィーユはリュミエルへと視線を送る。
リュミエルは無言で頷いた。
確信があった。
これは「未来の予言」ではない。
未来を“そうなるように”押し出す装置だ。
「神託の書は、過去の神託を閲覧することはできないのですか?」
ソルフィーユの問いに、神官は首を横に振った。
「はい。神託はこのように、突然現れては消えてしまいます。ゆえに、記録官が常に張り付き、降りた瞬間を逃さぬよう見守っているのです」
そう言い終えると、神官は一瞬だけ言葉を濁した。
「……聖女様、申し訳ございません。急用ができましたので、これにて失礼いたします」
深く一礼し、足早に来た道を引き返していく。
その背中は、どこか落ち着きを失っているように見えた。
足音が遠ざかり、地下の静寂が戻る。
「……この神託、少しおかしいですね」
沈黙を破ったのは、リュミエルだった。
声を潜め、まるで神託の書そのものに聞かせぬように。
「気が付きましたか」
「はい。恐らくですが……この神託、未来を映しているというより、過去の出来事をなぞっているように感じます」
ソルフィーユは小さく頷く。
「本来、神託の書は、いつ起こるかわからない未来の事象を“予知”するものです。ですが……」
視線を杯へと戻す。
「今の文面は、あまりにも具体的すぎる」
秩序の塔。
それは、すでに崩壊した監獄塔を指している。
門については不明だが、恐らく――ネハル神官が行った、あの儀式に関係しているのだろう。
そして。
聖騎士の使命を果たし、嘆きの先に聖女は地に伏せる。
聖騎士。
それは、あのとき命を賭して私を救いに来た、リュミエルの姿と重なる。
だが――。
(地に伏せる……?)
その言葉の意味を、記憶の中から探る。
だが、該当する出来事は思い当たらない。
倒れた覚えはない。
地に伏した記憶もない。
それでも、この神託が嘘だとは思えなかった。
「……おそらく、これは」
ソルフィーユは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「起こった過去ではなく、起こり得た未来。選ばれなかった可能性の一つ、なのでしょう」
杯の中の液体は、すでに静まり返っている。
まるで何事もなかったかのように。
だが、確かに歪みはそこにあった。




