月下の牙と契約
翌朝、日課のランニングをしていると、背後から軽い足音が追いついてきた。
「よう、ソル」
「おはようございます、ガルド」
並走しながら、ガルドは呼吸ひとつ乱していない。
「ライナーから話は聞いたぜ」
「皆さんにも都合があるでしょうし、無理にとは言わないと伝えています」
「ああ、そのことなんだがな」
ガルドは一度だけ前を見る。
「今日、ギルドで集合だろ。詳しい話はそこで聞いてくれ。ちなみに俺は参加する。よろしくな」
それだけ言うと、獣人らしい脚力で一気に加速し、前方へと消えていった。
「……やる気ですね」
横を走るリュミエルが苦笑する。
「そうですね。後ほどギルドへ行きましょう」
ランニングを終え、大聖堂での聖典朗読を済ませた後、私たちは変装をして東門近くの冒険者ギルドへ向かった。
初めて入る施設だが足取りに迷いはない。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
(これは……)
武器と防具の匂い。
汗と血、酒の残り香。
殺伐とした気配が肌にまとわりつく。
腕に覚えのある者たちが集まる場所だと、一目でわかる。
その中で受付前に並ぶ冒険者へ、怒鳴り散らしている男がいた。
声がやけに響く。
ふと、興味が湧いた。
(どれほど動けるか……)
私はその男の前へ歩み出る。
「あの……迷惑なので、静かにしていただけませんか?」
一瞬で空気が凍りついた。
ざわめきが消え、視線が集まる。
奥の方で、ライナーが慌てて立ち上がるのが見えたが、隣のガルドが静かに腕を伸ばして制した。
「……なんだ?」
男がゆっくり振り向く。
「俺様に言ったのか?」
「はい。そうです」
私は視線を逸らさない。
「大声で怒鳴っている、貴方です」
身長は二メートル近いだろう。
剃り上げた頭に、盛り上がる筋肉。
額に青筋が浮かぶ。
「いい度胸だな……ちょっと面、貸せや」
太い腕が伸びてくる。
私は、その動きをよく観察し――、手首を掴んだ。
次の瞬間、体重をわずかに移動させ、相手の軸をずらす。
力で対抗しない。
流れをずらす。
大男の身体が宙に浮いた。
床に叩きつけられる音が鈍く響く。
――合気。
力を殺し、力を返す。
生前、遠い国で教わった技術。
場内が完全に沈黙した。
「――大した痛みはないでしょう」
ソルフィーユは、床に転がった男の手を取り、軽く引き上げた。
「少しは冷静になりましたか?」
「……お、おう」
男は照れたように頭を掻く。
「悪かった。だがよ、どうやって投げ飛ばしたんだ? 女のくせに馬鹿力って訳でもなさそうだし……」
言いかけて男は、はっと口をつぐむ。
「……いや、違ぇな。悪かった。すまねぇ」
顔を赤くしたまま踵を返し、足早にギルドを出ていった。
その瞬間――
「「おおおおっ!!」」
歓声が、天井を揺らした。
「いいもん見せてもらったぜ!」
「小さいのにやるじゃねぇか!」
「一杯奢らせろ!」
先ほどまで張り詰めていた空気が一気にほどける。
私とリュミエルがライナーのテーブルへ向かうと、席に着く間もなく、木製のカップが並べられ、泡立つ酒が注がれ、
ソーセージとパンが無遠慮に置かれた。
「……注文はしていませんが」
「気にするな。どうやら、あいつらの奢りらしいからな」
ライナーの視線の先では、冒険者たちが親指を立てている。
私は軽く頭を下げ、ありがたく頂くことにした。
「へぇ、聖女様も庶民の料理なんて食べるのね」
セレナが、からかうように言う。
「どちらかと言えば、普段から質素な食事ばかりですよ」
ソーセージを一口かじり、率直に感想を述べる。
「太くてジューシーですね。とても美味しいですが……これは、何の肉でしょうか?」
「知らずに食べてるのが、またウケるわね〜」
「これこれ、耳長娘。からかうでない」
バロックがジョッキを置き、低い声で言った。
「それは魔物の肉じゃ。オークから取れる。最近は数が増えたのは良いが、被害も多い。出くわしたら一人で突っ込むな。必ず数で当たれ」
「ご忠告、感謝します」
「フン」
セレナは鼻を鳴らす。
どうやら、あまり好かれてはいないらしい。
「……さて、みんな聞いてくれ」
ライナーが声の調子を落とし、場を引き締めた。
「昨夜も話した通り、彼女たちと南ディオール地方を巡る旅の依頼だ」
酒気の残る空気が、少しだけ真剣になる。
「受ける方向で話はまとまっている。質問があるなら、今のうちに言ってくれ」
腕を組んだ男――、ベルクが口を開く。
「あえて聞くけどよ、お忍びじゃなく、普通に旅をするんだな? 護衛は本当に俺たちでいいのか?」
「はい」
答えたのは、リュミエルだった。
「信頼できる人物は、正直多くありません。騎士団は動かせず、聖騎士も……信用できないのが現状です」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
「南は飯も酒も美味いから、わしは文句なしじゃ」
「樽爺、それ北でも言ってたじゃない!」
「ガッハッハ! おーい、これのおかわりじゃ!」
バロックは空のジョッキを振り、再び酒を呼ぶ。
「私は構わないわ」
セレナが肩をすくめる。
「ついでに国境付近を見てみたいし」
「国境に何かあるのですか?」
「深緑の大森林。私の故郷よ。あそこは国境なんて曖昧でね。さらに南へ行けば、世界樹があるわ」
――世界樹。
ふと、脳裏にアルシェルの姿がよぎる。
「私たちの旅は、各地の村や町を巡り、布教と視察、問題があればその解決を行うものです」
私は、改めて彼らを見渡した。
「報酬については、リュミエルと相談の上、皆さんが納得できる形で契約したいと思っています」
その言葉に、冒険者たちは互いに視線を交わした。
酒と刃の匂いが混じるこの場所で、新たな旅の輪郭が、はっきりと形を取り始めていた。
その後、月下の牙とソルフィーユの契約内容を取りまとめる。
護衛期間は三カ月。
護衛費用は一括ではなく、一週間事に支給。
道中で発生する経費は別途支給。
食事については、狩猟可能な魔物を冒険者側が仕留めた場合、その肉を食用として無償提供。町や宿での食事は各自負担。
また、任務に支障が出ない範囲での自由時間も認められる。
拘束の強い護衛契約ではなく、比較的緩やかな内容だ。
内容を確認し終えた契約書を、受付カウンターへと差し出す。
「いらっしゃいませ。月下の牙の皆さん。本日は仕事の受注ですね?」
「ああ。この契約書を頼む。依頼主は――」
ライナーが、軽く手振りで私を示す。
「こちらの女性だ」
「依頼主はローラ=エクスリプス=デ=ベルサール様ですね。え? お貴族様なのですね。南ディオール地方への買付……ふむふむ」
受付嬢は書類に目を走らせる。
「報酬はやや高めですが、この内容で間違いありませんか?」
「はい。問題ありません」
リュミエルの説明によれば、相場より少し色を付けているらしい。
不測の事態を考慮すれば、妥当な判断だろう。
「契約期間はおよそ三カ月。報酬は一週間事に支給。延長の場合は一日ごとに銀貨十枚――、お間違いありませんか?」
「はい。お願いします」
「それでは、契約を行います」
受付嬢は契約書を広げる。
「代表者のお二方、こちらに手を置いてください」
私とライナーは、同時に手のひらを契約書の上へ置いた。
受付嬢が淡々と詠唱を始める。
短い言葉。
淡い光が契約書の上を走る。
「――契約は遂行されました」
受付嬢は顔を上げ、事務的に告げる。
「なお、契約内容に違反した場合は、相応のペナルティが課されます。その点、ご留意ください」
これで契約は完了だ。
ナスターが用いた奴隷契約とは、明らかに異なる。
拘束も、圧迫感もない。
それでも――
契約とは、約束であり、縛りだ。
私は胸の奥に残る微かな感覚を、意識の底に押し込めた。




