かりそめの平穏
監獄塔が崩壊してから、三ヶ月が経過した。
空気はすっかり秋めき、街路樹の葉は色づき始め、冬の訪れを今か今かと待っている。
私、ソルフィーユは、監獄塔での出来事が嘘だったかのように、普段と変わらぬ生活を送っていた。
時折、聖王国ディオール内の教会を巡って治療に赴き、大聖堂で聖典を読み、そして欠かさず日課のランニングも続けている。
あの監獄塔への移送も、後から考えれば不可解な点が多かった。
本来、あの手続きは必要のないものだったらしい。
そもそも、奴隷商虐殺事件については、翌日の段階で犯人が魔族である可能性が高いと判明していた。
現場には、魔族特有の痕跡がはっきりと残っていたという。
にもかかわらず、何者かが異端審問官を動かし、監獄塔移送を強行した。
ネハル拷問神官か、あるいは宰相メルドラか。
それとも――、まだ名も知らぬ別の誰か。
変化があったとすれば、アルス老が完全に隠居したことだろう。
監獄塔で出会って、初めて知った。
彼が銀翼の騎士団、アルステル=ヴァン=グレイブ団長であったという事実を。
アルス老は、銀翼の騎士団を動かし、さらに正規軍までも無理に出動させた。
その責任を取る形で団長職を退き、現在は隠居の身となっている。
後任には、死にかけながらも生き延びた二番隊隊長、ゼルファード=ラインハルトが就いたと聞いた。
そんな話を教えてくれた、リュミエルが箱を持ってきた。
「ソルフィーユ様、ミラーナ=クロウニット殿から、例の品が届きましたよ」
「ありがとう、リュミエル。せっかくだし、試着しましょう」
ついに『漆黒の衣装』が、ミラーナの手によって新たな姿を得て戻ってきた。
思わず足取りが軽くなるのを、自分でも自覚する。
リュミエルが衣装ケースを開く。
そこに収められていたのは、まるで夜空をそのまま落とし込んだかのような、深く静かな黒の衣だった。
シャドウアウルの素材を組み合わせたことで、以前とはまったく別物の装いになっている。
それでも、かつての衣装の面影が確かに残っており、ミラーナの技量の確かさが嫌でも伝わってきた。
「この小手や具足も、見事な作りですね。職人技が随所に感じられます」
手に取ってみると、それらは明らかにミラーナ本人とは異なる技法で作られていた。
だが、漆黒の衣装と意匠を合わせているのか、違和感はなく、完全なセットアップとして仕上げられている。
――まるで、最初から“そうなること”を想定されていたかのように。
早速、漆黒の衣装を試着してみることにした。
袖を通し、小手と具足を順に身につけていく。
「素晴らしいですね」
まるで風をそのまま羽織っているかのような軽さだった。
身動きしても、衣擦れの音すら立たない。
これがシャドウアウルの特性なのだろう。
「ソルフィーユ様、こちらを」
リュミエルから手渡されたのは、違法奴隷オークションに潜入した際に使用したマスクだった。
「これなら、ソルフィーユ様だと絶対にバレませんね」
「ええ。私はどうしても目立ちますから。マスクと漆黒の衣装を併用すれば、よほどのことがない限り正体は悟られないでしょう」
奴隷オークションの件で、あらぬ疑いを掛けられた以上、今後は慎重に動く必要がある。
現在の私は、聖王国側にも聖庁側にも、魔力と神力の双方を持つ存在だと知られてしまっている。
加えて、あれ以来、異端審問官の動向が一切掴めていない。
彼らが私をどう見ているのかは分からないが、最悪の場合、敵に回る可能性も考慮すべきだろう。
とはいえ、今のところ彼らが直接こちらに接触してくる様子はない。ひとまずは、様子見といったところか。
「そういえば、ミラーナ殿から手紙を預かっています。お読みしましょうか?」
「お願いします」
リュミエルが封を切り、少し咳払いをしてから読み上げる。
『聖女ソルフィーユ様。ご依頼の衣装が仕上がりましたので、お納めいたします。この衣装の名は、静黒聖衣。私が調べた資料によると、第八十八聖女、メラニア=メサフニタが着ていたとされ、聖王国ディオールにおいて、義賊として活動していた記録が残っています。拘束後、行方不明。いわく付きの衣装ですが、性能は折り紙付きです。魔力を流すと、ちょっと凄いことが起きるので、ぜひ試してみてください。細かい仕様については、別紙にまとめてあります。――ミラーナ=クロウニット』
途中から明らかに口調が砕けた。
これは間違いなく、ミラーナの文面を一言一句、そのまま読んでいる。
メラニア=メサフニタ。
彼女が、どのような想いでこの静黒聖衣を着ていたのかは分からない。
だが、今はありがたく使わせてもらうとしよう。
「……魔力を流してみましょうか」
仕様書に記された箇所へ、慎重に魔力を注ぎ込む。
――次の瞬間。
私は、突然下着姿になっていた。
「わっ! ソルフィーユ様、丸見えですよ!」
「なんで!?」
魔力を流し込んだ瞬間、静黒聖衣は消失した。
消えた、というより――。
視線を落とすと、左手中指に見慣れない指輪が嵌まっている。
「どうやら、この指輪に仕掛けがあるようですね」
再度、魔力を指輪へ流し込む。
すると、今度は体の表面に、静黒聖衣が“現れた”。着替えたという感覚ではない。
まるで、存在そのものを上書きされたかのようだった。
それよりも、頭に静黒聖衣を着たとき、頭にノイズが走った。何かの記憶? どこかの景色だったような気がするが……。
「便利ですね。私も欲しくなりました」
「大聖堂に保管されている聖衣は使えませんが、今度、ミラーナにリュミエルの装備も依頼してみましょう」
「やった!」
子供のように無邪気に喜ぶリュミエルの姿を見て、私の胸を、冷たい風が吹き抜けた。
監獄塔で彼女を救った、あの日。
リュミエルは神力によって蘇った。
――いや、違う。
蘇った、という表現は正確ではない。
彼女は戻ってきたのではなく、こちら側へ来てしまったのだ。
私の側へ。
黒と白の境界を越えて。
それは、誰にも裁かれない。
けれど、確かに存在する。
私が背負うべき、最大の罪だった。
「そういえば、あれから体調はいかがですか?」
「ソルフィーユ様のお陰で体調も良く、傷ひとつありません。ただ……」
「どこか異変がありますか? すぐに教えてください」
「いえ。最近、体が訛ってしまって困っています」
「……それも、私の責任ですね」
「いえ。私は、ソルフィーユ様に危険が及ぶと思い、銀翼を動かしました。その結果、団長は引退。私も聖騎士の資格を一次剥奪です。仕方のないことですが、団長も私も、最近は毎日が退屈でして……」
アルス老は、すっかりやることを失ったようだった。最近では毎朝、私と一緒にランニングをし、その後は茶を飲みながら雑談をしている。
あの好々爺然とした姿から、銀翼の騎士団元団長という肩書きは、どうにも結びつかない。
リュミエルもまた、監獄塔で銀翼の騎士団を指揮した件により謹慎処分を受け、謹慎明けには聖騎士の資格を一次剥奪されている。
そこには、明らかな政治的意図があった。
アルス老も裏から働きかけたようだが、すでに退団した身では、意見は通らなかったらしい。
なお、リュミエルは本来であれば、聖女付き聖騎士の任も解かれるはずだったが、それは私の意向で撤回された。
側仕え兼護衛として彼女を傍に置く、聖女特権の行使だった。
あくまで、リュミエルが正式に聖騎士へ復帰するまでの暫定措置だ。
――少しの辛抱である。
「息抜きに、グランデル商会へ行きませんか?」
「いいですね。妖精飴、食べたいです」
ほんの、少しの間だけ。
私たちの平穏は、まだ続いていた。




