ありったけの神力を
聖女ソルフィーユの後ろ姿が、地上への闇に消えていく。
それを見届けた後、アルステル=ヴァン=グレイブは、ゆっくりと振り返った。
視線の先にいるのは、拷問神官ネハル=ロスティア。
「……ネハルよ」
低く刺すような声。
「聖女を使い、『儀式』を行ったな。いったい、どの儀式を執り行った」
ネハルは微笑を崩さない。
「神託の書に記されていた一文。その検証ですよ」
軽い口調とは裏腹に言葉は重い。
「結果――、初めて成功しました。ですから、大収穫です……イヒヒ」
「……儀式の遂行には、本来、国王と教皇の正式な書状が必要じゃ」
「ええ、もちろん」
ネハルは棚の引き出しを開け、丸められた羊皮紙を取り出した。
それを差し出す仕草に、ためらいはない。
アルステルは受け取り、内容を確認する。
そこには確かに、聖女を用いた“ある儀式”の実行許可が記されていた。
『黙示供犠』
国王の名。
教皇の名。
そして、正式な捺印。
疑いようがない。
「……ネハルよ」
紙を巻き直し、静かに問う。
「この儀式は三大奇跡ではないな。いったい、どのような儀式なのだ」
「お答えできませんねぇ……」
ネハルは肩をすくめ、愉快そうに喉を鳴らす。
「イヒヒ」
それ以上、問いただしても無駄だ。
アルステルは、それをよく知っていた。
「ああ、そうそう」
不意に、ネハルが言葉を継ぐ。
「一つ、聖女ソルフィーユについて、お伝えしておきたいことがございます」
「……何じゃ」
「彼女は『真なる聖女』です」
一瞬、空気が張りつめる。
「左様か……」
アルステルは、それ以上の感想を口にしなかった。
「我々、聖庁としましては」
ネハルは、どこか楽しげに続ける。
「彼女の行く末を、見守りたいと考えております。王国側の動き、そして国外の動きには、十分にご注意なさった方がよろしいかと」
「……」
アルステルは何も答えない。
ただ、踵を返し、地上へと続く階段を上り始めた。
その背中は老いてなお重い。
世界が確かに変わり始めたことを理解した者の背中だった。
▽
ソルフィーユは、暗い監獄塔の中から飛び出した瞬間、曇天の空が現れた。
一歩、外に出る。
そこに広がっていたのは、解放とは程遠い光景だった。
瓦礫の山、崩れた壁、そして、あちこちに転がる無数の遺体。
一見すれば災害の跡にも見える。だが、倒れ伏す死体の傷はそれを否定していた。
刃痕。
打撲。
貫通した鎧。
――人が、人を殺した痕跡。
ソルフィーユは、ゆっくりと息を吐く。
(タイガー=ブラッドファング……)
タイガー商会の実質的な親玉。
あの圧倒的な存在感と力。
今の自分では、まだ及ばない。
いつか必ず対峙する日が来るのだと、直感が告げている。
その時までに、力を備えなければならない。
そんな思考が、ふと途切れる。
監獄塔の敷地外。
さらに多くの遺体が横たわるその先に、見慣れた旗がはためいていた。
銀の翼。
同じ紋章を刻んだ鎧を纏う集団。
ソルフィーユは思わず駆け出す。
「止まれ! 誰だ!」
鋭い声と共に、数本の剣が向けられた。
「よせ! 聖女ソルフィーユ様だ!」
別の騎士の声が重なり、剣先が慌てて引かれる。
剣を向けてしまった騎士は、顔を青ざめさせ、深く頭を下げた。
ソルフィーユは軽く手を上げ、「大丈夫です」と静かに意思を示す。
「怪我人はいますか?」
声が、思ったより落ち着いていることに、自分でも気づく。
「リュミエルが重傷だと聞きましたが……」
その言葉に応えるように、一人の男が前に出た。
重厚な鎧。
歴戦の風格。
「聖女様。一番隊隊長、ガイアス=ブルームと申します」
一礼してから、表情を曇らせる。
「リュミエル=フォルキア、そしてゼルファード=ラインハルトが重傷です」
ガイアスは深く辛い言葉を吐き出す。
「特にリュミエルは……現在、意識を失っております」
その言葉が静かに胸に落ちた。
ソルフィーユは、ほとんど駆けるように二人のもとへ向かった。
先に目に入ったのはゼルファード=ラインハルトだった。
意識はある。しかし、全身が紫色に変色し、異様に腫れ上がっている。
骨という骨が砕けたのだろう。
それでも、呼吸はある。命は繋がっている。
問題は――もう一人。
リュミエル。
左肩から先が、存在しない。
複数の術師が魔力による治療を施しているが、傷口は閉じず、血は地面を濡らし続けている。
致死量の出血。
一目で分かる。
青白い顔。
微動だにしない胸。
「どいてください」
静かだが、拒絶の余地のない声。
「私が神力で癒します」
残された僅かな神力を絞り出す。
「――全快」
光が溢れ、リュミエルの身体を包み込む。
失われていた肩と腕が、まるで最初からそこにあったかのように再生した。
「リュミエル……起きてください。怪我は、治りました」
返事はない。
体を揺する。
「リュミエル?」
応えは、ない。
口元に耳を寄せる。
呼吸が――ない。
首元に指を当てるが、脈もない。
心臓が止まっている。
ソルフィーユの脳裏を、“死”という言葉が横切った。
思考より先に身体が動く。
両手を胸に重ね体重をかける。
――心臓マッサージ。
「リュミエル、生きてください!」
声が震える。
「こんな……こんなところで、死ぬつもりですか!」
神力は肉体を癒せても、失われた命までは戻せない。それは聖典にも記された事実。
それでも、手を止める理由にはならなかった。
「聖女様……もう……」
「諦めません!」
押す。
戻す。
押す。
時間の感覚が、失われていく。
五分。あるいは、それ以上。
永遠のように長い。
「……リュミエル」
喉が詰まる。
「あの誓いは……嘘だったのですか……」
胸の奥から、熱いものが込み上げる。
サイファとして生きていた頃、両親を事故で失ったあの日以来――涙など、枯れたと思っていた。
「……あなたは、私の聖騎士でしょう……!」
声が割れる。
「私の目的のため、最後まで側にいると……そう、約束したでしょう……!」
器に残る神力は、ほぼ尽きている。
だが――
魔力は、まだある。
魔力を神力へ変換することは可能だ。
それが何を意味するかも、分かっている。
異端。
裁き。
追放。
だが。
(後悔するくらいなら――)
決意は、迷いを焼き切った。
(秘密を失ってでも、救う)
「――黒焔纏」
黒い炎が、全身を包む。
禍々しく、濃密な魔力。
周囲にいた銀翼の騎士団、
そして王国正規軍が、ざわめく。
さらに、赤い煙が噴き出す。
かつて喰らった、赤煙のルーガの魔力。
それが黒焔に溶け込み、爆発的な奔流となって天へと伸びた。
(今は――変換する!)
魔力を神力へ。
黒焔は白へ、
白はやがて七色へと変わる。
「リュミエル……」
声が、周囲が、静かになる。
「これが、ありったけの神力です」
限界が近いことは分かっている。
「目を覚まさないと……流石の私でも、死んでしまうかもしれませんよ……」
その瞬間。
――ピシリ。
器の内側に、確かに“ひび割れる音”がした。
眩い光が曇天を貫き、一点へと収束すると、その光はリュミエルの胸へ。
「……ソルフィーユ……様?」
微かな声。
目を薄っすらと開けるリュミエルの大きな瞳には、神力の光が宿っていた。




