虎の獣人
ソルフィーユとネハル拷問神官は扉を押し開け、
特定重犯罪者が収監されている区画へと足を踏み入れた。
そこにあったのは、破壊された牢と砕け散った鉄格子。そして、武装した獣人たちの群れ。
さらに奥には、異様な存在がいた。
鷹の顔に、獅子の胴体を持つ巨大な魔物。
グリフォンだ。
「侵入者……? 監獄兵や騎士たちは、どうしたのですか?」
「なんだ。下層に、まだ誰か残ってやがったのか」
応じたのは、灰色の狼の顔をした獣人だった。
背には、己の背丈を超える大剣。
立っているだけで凶暴さが滲み出ている。
「異端審問官もいたはずですが……彼らは、どこに?」
「この状況で、まだ質問かよ」
狼獣人は鼻で笑う。
「まあいい。教えてやる。あいつらは上だ。俺たちの傭兵とやり合ってる。すぐには、降りてこられねぇ」
「それは……困りましたね」
ネハル拷問神官が、困ったように眉を下げた、その瞬間。
「ネハル拷問神官ッッッ!!」
空間を震わせる怒号が響いた。
視線を向けると、牢の奥から一人の男が歩み出てくる。
「やっと、外に出られたぜ!」
全身から、禍々しいほどの魔力が噴き上がっていた。
「手始めだ。ネハル拷問神官を――ブッ殺す!」
虎柄の巨体。
隆起した筋肉。
獣そのものの威圧。
「てめぇに、どれだけ体を痛めつけられたと思ってやがる。この恨み、今ここで晴らさせてもらうぞ!」
間違いない。
この男こそ――特定重犯罪者。
「……タイガー=ブラッドファング」
ネハル拷問神官は、静かに名を呼んだ。
「檻から出てしまいましたか。これは……私の命も、ここまでかもしれませんね」
どこか達観した笑みを浮かべる。
「まあ、教皇様に尽くした身です。後悔はありません」
「いさぎいいなァ!」
タイガー=ブラッドファングが、牙を剥く。
「なら――死ね!」
太い腕から伸びた鋭い爪が、
ネハル拷問神官を引き裂こうと振り下ろされた、その瞬間。
ソルフィーユが動いた。
小さな身体が、虎の腕に絡みつく。
重心を崩し、力と体重を利用して――、巨体を投げた。
虎男、タイガー=ブラッドファングの巨体が、轟音と共に床へと叩きつけられた。
「お頭ァ! 大丈夫か!」
「……いててて。何が起きた?」
「あの、ちっこい人族の女に投げ飛ばされたんだ」
「……はあ? 俺が?」
虎獣人は、ゆっくりと上体を起こした。
だが足取りは安定せず、立ち上がる途中でふらりと身体が揺れる。
(殺す気で頭から落としたのに……)
ソルフィーユは内心で舌打ちする。
「頭に、すげぇデカいたんこぶができてやがるぞ」
部下の獣人が感心したように笑った。
「なかなかやるな、小さい人族の女!」
虎獣人は首を鳴らし、ゆっくりと胸を張る。
「俺の名は、タイガー=ブラッドファング。獣人王だ」
「……ソルフィーユです」
「ソルフィーユ?」
その名を聞いた狼獣人が、しばし考え込む。そして、目を見開いた。
「ああっ!? 聖女ソルフィーユか! 虹色の銀髪、人族、背の低い女……それに、赤煙のルーガを殺ったやつだろ。ナスターがそんなことを言ってたな」
「ルーガを殺った? そんなわけねぇだろ」
タイガーは鼻で笑う。
「聖女に、何ができるってんだ。そもそも……本当に聖女なのか?」
次の瞬間、タイガーは鼻をひくつかせた。
獣特有の鋭い感覚が、空気を探る。
「……こいつ、神力を持ってやがる。確かに聖女だ」
低く、唸るような声。
「だが……信じられねぇが、魔力もある。しかも、どうやったかは知らねぇが――」
タイガーの視線が、ソルフィーユを貫いた。
「魔力の中に、ルーガの匂いまでするじゃねぇか」
ベルクが低く頷く。
「……ナスターの話は、本当だったのか」
(ベルク……タイガー……この二人もしかして――)
ソルフィーユの胸が、わずかにざわつく。
「貴方たち……もしかして、タイガー商会の人間ですか?」
「タイガー商会?」
タイガーは一瞬きょとんとし、すぐに鼻を鳴らした。
「ああ。確か、ナスターの野郎が立ち上げた仕事だったな。そういや、ナスターはどうした? 定時連絡が、しばらく来てねぇぞ」
「……ナスターが管理していた奴隷商は潰された。その後の行方は不明だ」
「……あんにゃろ」
タイガーの歯が、ギリギリと噛み締められる。
その姿には、抑えきれない凶暴さが滲んでいた。
「見つけたら、ボコボコにしてやる」
その一言で、空気が変わった。
今、この男と正面から戦えば――勝てない。
力だけではない。
経験、殺意、格。
すべてが桁違いだった。
タイガー=ブラッドファング。
その底知れない強さに、サイファは生まれて初めて、明確な恐怖を覚えていた。
「さて、ネハル拷問神官。邪魔が入ったが……死ぬ準備はできたか?」
「神託の聖女……この先の未来が、実に気になりますねぇ……イヒヒ」
「意味の分からねぇことを呟いてんじゃねぇ」
タイガーが一歩、前に出た。
その瞬間――、ネハルとタイガーの間に、ソルフィーユが割って入る。
「……なんだ、聖女ソルフィーユ。俺を投げ飛ばしたからって、いい気になってるのか?」
「そんなつもりはありません」
はっきりと、そう答える。
「ですが……黙って、ネハル神官を殺されるのを見ているつもりもありません」
「ほう……」
タイガーの口元が、凶悪に吊り上がった。
次の瞬間。彼の身体から、渦を巻くように魔力が噴き出す。
空間が、歪む。
空気が、重く沈む。
その魔力に触れた瞬間、ソルフィーユは自分の毛穴という毛穴から、汗が噴き出すのを感じた。
圧倒的な威圧。
まるで――猫と、獅子。
力の差は、歴然だった。
心が、今にも折れそうになる。
だが――
胸の奥。
器の内側から、光が溢れ出した。
神力の輝き。
ネハルとの儀式で弱っていたはずの神力が、タイガーの魔力に触れたことで、逆に活性化していく。
――取り込んでいる。
(これは……以前、赤煙のルーガの魔力を喰ったときと、似ている……)
あの時、魔力で形作られた“口”が、貪るようにルーガの魔力を喰らった。
黒焔纏。
神力と魔力を組み合わせて生まれる力。
神力を覆い隠す黒い炎は魔力だが、本質は神力そのもの。
「…………」
タイガーは、その変化を見逃さなかった。
そして、次の瞬間。
「……は、はは――ハッハッハッ!」
突如として、大声で笑い出した。
溢れていた凶悪な魔力が、嘘のように引っ込む。
「お前……面白いな」
タイガーは獰猛な笑みを浮かべる。
「俺を投げ飛ばし、俺の魔力にも怖気づかねぇ人族は、初めてだ」
一拍置いて、断言する。
「気に入った。決めたぞ、聖女ソルフィーユ。お前は今日から、俺の嫁だ」
「……!?」
ソルフィーユが言葉を失うより早く、周囲の獣人たちが凍りついた。
「お、お頭!? 聖王国ディオールの聖女なんか嫁にしたら、戦争になりますぜ!」
「もともと国崩しをするつもりだった」
タイガーは、あっさりと言い放つ。
「今さら潰す国が一つ増えたところで、構いやしねぇ」
「お頭ぁ!!」
獣人たちの悲鳴が上がる。
だが、勝手に話を進められている当事者は、完全に置いてけぼりだった。
「――失礼ですが」
冷えた声でソルフィーユが口を挟と、タイガーと、その仲間たちの視線が集まる。
「私は、嫁に行くつもりはありません。それに、グランデル商会にちょっかいを出しているような不良組織は、敵です」
一歩も退かず、言い切る。
「あん?」
タイガーの視線が、ベルクへと向く。
「グランデル商会はナスターの野郎が、タイガー商会の地盤固めに乗っ取ろうとしてたって話だ」
ベルクが説明すると、タイガーは舌打ちする。
「グランデル商会だったか。もう手は出さねぇ」
そして、にやりと笑う。
「だから嫁に来い」
「……嫌です」
「強気な女は嫌いじゃねぇ!」
タイガーは豪快に笑った。
「獣人の女も、みんな気が強ぇからな! ハッハッハッ!」
もはや話にならない。
そう感じた、その時。
上空から、羽音と共に鳥獣人が飛び込んできた。
「ベルク団長! 大変っす!」
「どうした」
「『爪の傭兵団』が、壊滅しました!」
「……なんだと?」
ベルクが歯を噛み締める。
「頭。どうやら……時間切れだぜ」
「チッ……」
タイガーは名残惜しそうに鼻を鳴らす。
「聖女ソルフィーユ。いつか、迎えに行くからな」
そして、ネハル拷問神官へと一瞥を向ける。
「命拾いしたな」
タイガーが合図すると、ベルクの乗るグリフォンに飛び乗り、獣人たちは次々と塔の上へと消えていった。
そして嵐が去った後のような静寂が残った。




