神託の書について
汗と血、それらが混ざり、鼻腔を刺激する。
何度もウィッピングを振ったせいか、ソルフィーユの両手は既に限界を越え、筋肉が悲鳴を上げていた。
そして、その鞭を受けているネハル拷問神官の背中は酷い傷を負っていながらも、苦痛の声を上げずに只管耐えていた。
いつまでこの地獄は続くのか。
取り調べのために拷問を受けるのなら、まだ理解できた。
だがこれは違う。
ネハル拷問神官は、罪を吐かせるために鞭を受けているのではない。自らの信仰を証明するために、己の肉体を供物として差し出している。
痛みは罰ではない。
痛みは祈りだ。
業を背負いしネハル拷問神官は、血と苦痛をもって誓いを刻む。そうやって女神レイディアに捧げてきた。
だから本来、この鞭を振るうのはネハル自身のはずだった。己の背を打ち、神に背を向けぬ証として。
それを、ソルフィーユが代わっている。
神官の背中に走る裂傷を見るたび、胸の奥がざらついた。
彼は歯を食いしばり、祈りの言葉を絶やさない。
「止めなくていでください……これは、私の務めなのです」
掠れた声でそう言われるたび、ソルフィーユの腕は重くなる。神力を注ぎながら鞭を打つ行為は、罪悪感の中に神聖な感情まで混じり、不思議な感覚に陥る。
ソルフィーユは息を整え、再び鞭を構えた。
鞭を振るうたびに、彼の罪と信仰、その両方を自分が引き受けているような錯覚に陥る。
鞭が鳴る。
血が散る。
――やがて空気が神力で満たされ、自分の身体の内から何かが解放された気がした。
何度、鞭を打ったのか分からないが、やがてネハル拷問神官は静かに立ち上がり、こちらへと振り向いた。
その顔に苦悶の色はなかった。
むしろ清々しく、異様なほどの生命力に満ちている。
「聖女ソルフィーユ。貴女の神力は本物です」
断言だった。
「そして、貴女は成り代わりではありません。この身をもって、私が保証いたしましょう」
「はぁ、はぁ……あ、ありがとうございます?」
息を整えながら答えたものの、状況はよく理解できていなかった。
ただ一つ分かるのは、ネハル拷問神官に認められたという事実だけだ。
それは、この場で否定されるよりも、遥かに重い意味を持つ。
最悪の場合、このまま監獄に幽閉される未来さえあり得たのだから。
「ネハル神官……背中のお怪我を癒します」
差し出しかけた手を、彼は静かに制した。
「いえ、結構です」
ネハル拷問神官は上着を羽織り、無数の裂傷を負った背を隠す。
「この痛みは、信仰の証です」
淡々と、しかし誇りを込めて告げる。
「そして、女神レイディア様へ捧げたものです。……イヒヒ」
その声には、後悔も迷いもなかった。
痛みさえも、祈りとして昇華した者の声だった。
「それにしても、不思議ですね。今まで、どうやって隠していたのですか? その魔力を」
ドクン、と心音が跳ね上がった。
魔力は使っていない。
神力のみでウィッピングを行ったはずだ。
それなのに――なぜ分かる。
「聖女様の、その表情……ようやく見られました」
ネハル神官の口元が歪む。
「イヒヒ……嫌々ながらも鞭を振るう姿は、とても美しかった。しかし、その内に秘めた深く暗い闇……それが、さらに貴女の美しさを際立たせている」
ネハル神官は距離を詰め、ソルフィーユの瞳を覗き込むように語りかけてきた。
逃げ場のない視線だった。
「ふむ……」
彼は顎に手を当て、独り言のように続ける。
「神託の書に記された文面とは、細部が少し異なりますが……概ね一致していますね」
「神託の書……ですか? 神託院にある」
「はい。その神託の書です。聖女様は『器の小さき聖女』という文言をご存じですか?」
「いいえ。存じておりません」
即答すると、ネハル神官は満足げに頷いた。
「神託の書とは、年に数度、勝手に記録される神力を帯びた神具です。人の意思とは無関係に、未来の断片を書き記す」
淡々とした口調で、恐ろしいことを言う。
「その書には、こう記されています。『器の小さき聖女。その者が死ぬとき、黒と白が混ざり、秩序が崩れる。魔物は凶暴化し、国は崩壊し、世界は再構築される』と」
息が詰まる。
神託院にある神力を宿した道具、『神託の書』の存在は知っていたが、そこに自分に関わる予言めいた文が刻まれていることは初耳だった。
「器の小さき聖女……黒と白」
ネハル神官は、ゆっくりとソルフィーユを見据える。
「黒は魔力。白は神力。それを同時に宿す存在――聖女ソルフィーユ様。該当者は、貴女しか考えられません」
断定ではない。
だが、確信に限りなく近い声音だった。
「もっとも、後半の文面は“結果”でしょう。今後、起きる現象を示していると私は考えています」
まるで、未来の災厄を検分するような目で、ネハル神官は静かにそう告げた。
「……私の処遇は、どうなるのでしょうか? 異端として、この監獄塔に幽閉されるのですか?」
「イヒヒ。そこまで恐れる必要はありませんよ」
ネハル拷問神官は、指先で空をなぞるような仕草を見せた。
「聖女として振る舞い、聖庁に反旗を翻さなければ問題ありません」
「……そうですか」
だが、その言葉には微かな含みがあった。
条件付きの安全。守られているようで、常に見張られている。
「それよりも、私が危惧しているのは――」
ネハル拷問神官は声を落とす。
「神託の書に記された『世界が再構築される』という文言です」
「……と、言いますと?」
「秩序が壊れる。国が滅びる。魔物が凶暴化する。
そうした事象は、過去の歴史にも幾度となく記録されています」
そこまで言って、彼は一拍置いた。
「しかし、『世界の再構築』という表現は別格です。それは、単なる崩壊ではない。枠組みそのものが書き換えられる可能性を示唆している」
静かな口調が、かえって不気味だった。
神託の書がどれほどの確率で当たるのかは分からない。
だが、ネハル拷問神官自身も、この文言を理解しきれていないのは明らかだった。
「結果として、私は今――聖女様の処遇について迷っております」
彼は正直にそう言った。
「恐らく、聖女様が亡くなられた場合、神託の書に記された“結果”が発現する。ならば、それを防ぐために必要なのは――」
視線が、ソルフィーユに戻る。
「聖女を守ることです」
ネハル拷問神官は、指を一本立てた。
「一つ目。聖女をここ、監獄塔に幽閉する方法」
すぐに、首を振る。
「……理由は置いておきますが、私は、これは取るべきではないと考えています」
続いて、二本目。
「二つ目。従来通り、聖女として公務に従事していただく。しかし――」
彼の笑みが、少しだけ深くなる。
「それだけでは、足りない」
「三つ目。聖女様には、外の世界へ出ていただきます」
「……外、ですか?」
「ええ。聖庁の用意した舞台だけではなく、魔物、国境、異端、争い――“世界の歪み”そのものを見ていただくのです」
ネハル拷問神官は、淡々と告げる。
「神託が正しければ、世界は聖女様を中心に変質する。ならば、その変化が始まる前に、聖女自身が世界を知る必要がある」
「私が……世界を知る?」
「束縛はいたしません」
はっきりと、そう言った。
「護衛は付けます。記録も取ります。ですが、判断と行動は、極力、聖女様に委ねる」
それは保護ではなく、観測。
監禁ではなく、実地試験。
「言わば――」
ネハル拷問神官は、愉快そうに笑った。
「生きたまま進行する神託の検証です」
「……そのようなことが、本当に可能なのでしょうか?」
疑念を込めて問うと、ネハル拷問神官は小さく肩をすくめた。
「神託の書は、確かに便利な神具です。しかし同時に非常に不安定な代物でもあります」
軽い口調とは裏腹に、語る内容は重い。
「そこに記された厄災を最小限に抑えることも、あるいは回避することも、理論上は可能です」
彼は一歩踏み出し、諭すように続ける。
「神託の書は神具ですが、所詮は道具。聖女様がどのように行動されようとも、神託通りの結果に至るかもしれませんし――至らないかもしれない」
白とも黒ともつかない、曖昧な結論。
「であれば、です」
ネハル拷問神官は、にたりと笑った。
「最悪を回避するためには、いっそのこと――、聖女様には今まで通り、自由に行動していただくのが最善ではないかと、私は考えました」
一瞬、理屈としては筋が通っているように聞こえる。
だが、その“自由”がどこまで保証されるのかは、分からない。
「……しかし!」
声を張り、指を立てる。
「最終判断は、私一人では下せません。教皇様、そして国王様のご意見も伺う必要がありますからね」
楽しげな声音のまま、現実を突きつける。
「ですので、当面は監獄塔で生活していただきます。先の奴隷商虐殺事件についても、その間に情勢を整理し、正式な処遇を決定する形になるでしょう」
それは猶予か、それとも保留という名の監視か。ネハル拷問神官は、曖昧な笑みを浮かべたまま、そう締めくくったその時――
ドンっと爆発音が扉の向こうから響き、天井からパラパラと埃が落ちてくる。
「……特定重犯罪者エリアが騒がしいですね」
そう言と、ネハル拷問神官は扉の鍵を外した。




