拷問神官
目元が落ちくぼみ、病的な笑みを浮かべたその顔には、確かな記憶があった。
違法奴隷商に乗り込む前、巡回診察で治療を行ったとき、他の者とは明らかに異なる、異様な傷を負っていた人物。
「お背中の具合は、いかがですか?」
「ええ。完全に治りましたよ」
男は嬉しそうに肩をすくめる。
「おかげで、痛覚も戻りました」
「……そうですか」
会話は噛み合っているはずなのに、どこかが決定的にずれている。その違和感を飲み込む間もなく、男は楽しげに続けた。
「イヒヒ。本日はですね、聖女様が“本当に聖女様なのか”を調べるための儀式を行います。申し訳ありませんが、異端審問官の皆さまには退出を願います」
その言葉に、異端審問官たちが即座に反応する。
「それはできません」
セラフィナが、即座に否定した。
「私たちは見届ける義務があります」
「ええ。そのために、ここにいる」
エルディオも同意する。
「……どうやら、勘違いをなさっているようですね」
男の声色が変わる。
同時に、空気が歪んだ。
魔力――そう判断できる。
だが、質が分からない。
神力でもなく、一般的な魔力とも違う。
分類できない“何か”が、じわりと広がっていく。
――この男は、危険だ。
「……理由を、伺っても?」
エルディオは異変を察知したのか、慎重に問いかける。
「イヒヒ。儀式を行うと言いましたよね?」
男は愉快そうに指を鳴らした。
「これは、聖女様ご本人にも大きな負荷がかかります。それに、神力の“性質”を他の者に見せるわけにもいきません」
「しかし……」
「いくら異端審問官といえど、知らなくていいことは存在します」
男は、はっきりと言い切った。
そして、一歩踏み出す。
「場合によっては、必要以上の秘密を知り、ここにいる“住人”と同じ場所で暮らす羽目になることも……イヒヒ」
それは、脅しではなく、事実を述べているだけの口調だった。
異端審問官たちは言葉を失う。
この場で最も権限が強いのは、目の前の男だ。
「皆、落ち着け。ここから先は“聖性”の領域だ」
グレオンが低い声で制した。
「我々の職務を、明確に逸脱している」
「……チッ」
短い舌打ちが、静かな部屋に響く。
セラフィナはそれ以上言葉を発しなかったが、その表情は明らかに不満げだった。
納得して引いたわけではない。ただ、職務として退いただけだ。
鋭い視線だけが、最後まで私と拷問官を射抜いていた。
異端審問官たちが部屋を出ると、扉は重々しい音を立てて閉まった。
その瞬間、この部屋は完全な無音に包まれる。外の気配は一切遮断され、足音も、遠くの叫びも、何一つ聞こえない。
「イヒヒ……異端審問官というのは、どうにも頭が硬い方が多くて困りますね」
男は楽しげに肩をすくめた。
「そう思いませんか?」
「は、はあ……」
「おっと、失礼。これはこれは本当に失礼しました」
彼はわざとらしく手を打つ。
「私としたことが、自己紹介がまだでしたね。私は監獄塔の拷問神官を務めております、ネハル=ロスティアと申します。呼び方はご自由に」
「ソルフィーユです」
「存じておりますとも」
ネハルは、笑みを崩さないまま私を見た。
「病弱で、心が弱く、器の小さな聖女様」
その言葉に悪意はなかった。
侮蔑でも挑発でもない。
彼にとって、それはただの客観的評価だった。
「それが不思議なことに……今はとても生命力に満ちている」
ネハルの視線が、私の内側を覗き込む。
「教皇様も、大変ご興味を示されていましたよ」
「……教皇様と、お知り合いなのですか?」
「ええ。教皇様は、私を拾ってくださった恩人です」
そう言って、彼は心底嬉しそうに笑った。
「それだけではありません。このような天職まで、お与えくださいました。イヒヒ……実に、ありがたいお方です」
アルヴァス=イル=レイディア教皇。
神の名を冠する教皇とは、以前、食事を共にしたことがある。人当たりが良く、よく喋る人物だった。
だが、食事の間も、会話の最中も、視線を逸らさず、私だけを見つめ続けていた。今思えば、あれは少し異常だったのかもしれない。
「教皇様とは、数える程度しかお会いしたことはありませんが……」
「ええ、ええ。先日お会いした際のお話は、直接うかがっております」
ネハルは、満足そうに頷く。
「とても有意義だった、と。その話を聞いて、私も聖女様に興味が湧きましてね」
笑みが、わずかに深くなる。
「これから行う儀式……どうやら、力が入りそうです。イヒヒ……」
ネハルは、指先だけで私を手招いた。
言葉はない。拒否を想定していない動きだ。
黙って従い、彼と並んで棚の前に立つ。
「こちらが拷問器具です」
見れば分かる。
多種多様な拷問器具が、整然と並べられている。どれも使い古されているが、丁寧に手入れされ、多少乱暴に扱っても壊れそうにない。
「これらを用いて、聖女様の神力と器……そのほか諸々を調べます」
――やはり、拷問。
サイファとして生きていた頃、一通りの拷問訓練は受けている。
だが、今の私はソルフィーユだ。この身体で、どこまで耐えられるか分からない。
痛みそのものは耐えられる。
問題は、肉体の限界だ。
身体強化で軽減するのは論外。神力で癒しながら耐える?
そんな思考を巡らせていると、ネハルが一本の器具を取り上げ、こちらに差し出した。
「これはウィッピングと呼ばれる鞭です」
革の帯が幾重にも分かれている。
「これで叩くと、痛みが分散して……なかなか強烈ですよ。まあ、長くて太い鞭の方が、分かりやすく効くんですけど」
イヒヒ、と小さく笑う。
初めて手にするウィッピングは、妙に握りやすかった。柄は手に馴染み、帯の先端には金属製の突起が埋め込まれている。
こんなもので叩けば、皮膚など一瞬で裂けるだろう。
「それでは、早速」
ネハルはそう言うと、ためらいなく上着を脱いだ。
そして――私に背を向ける。
「神力を込めて叩いてください」
「……は?」
何を言われているのか、思考が追いつかなかった。
「あの……聞き間違いでなければ、ネハル神官を叩いて、と言いましたか?」
「ええ。間違いなく言いましたよ」
ネハルは、あっさりと肯定する。
「少し強めでお願いしますね」
(どうすればいい……?)
過去に拷問をしたことは何度もある。
だが、頼まれて行う拷問は初めてだ。
しかも相手は、拷問神官ネハル=ロスティア。
これは試されているのか。
それとも――神力の“性質”を見られているのか。
「ほら。儀式はもう始まっています」
ネハルは振り返らない。
「このまま進めないのであれば、異端審問官に引き渡すことになりますが……それでもよろしいですか?」
逃げ道は用意されていない。
「……痛かったら、教えてください。すぐに神力で治癒をかけますので」
背中に向けられた言葉だった。
ネハルの背には、先日治療したばかりとは思えないほど、無数の傷が残っている。
古い傷と新しい傷が入り混じり、皮膚は歪に盛り上がっていた。
「いきますよ……」
決心し、鞭を打ち込む――。
振り下ろしたウィッピングが、乾いた音を立てて背中に当たる。
パシッ。
「……相変わらずですね」
ネハルが、静かに言った。
「聖女様は、神力を行使するときに迷われる」
以前、治療の際に言われた言葉だ。
今回については、否定できない。
迷った。確かに。
だが――
その迷いが、何を意味するのかは分からない。
「もっと、力を」
ネハルは淡々と続ける。
「神力も、しっかり込めてください」
「……これで、どうですか!」
二度目は、意識的に強く振り抜いた。
バシッ。
「――っ」
短く、息が詰まる音が漏れる。
「あっ……大丈夫ですか? すぐに治療を――」
「駄目です」
ネハルは即座に遮った。
「儀式の途中ですから」
背を向けたまま、楽しげに言う。
「この儀式には、ちゃんとした理由があるのですよ」
彼は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「この背に刻まれる業を、女神様に見届けていただく必要があるのです」
そして、最後に付け加えた。
「聖女の力によって、ね。イヒヒ……」




