神聖と地獄
昨夜は、案内された部屋でそのまま寝泊まりした。
室内は質素だったが、監獄塔という場所を考えれば、これで十分だ。
そもそも、貴賓室などという概念自体が、この施設には不要なのだろう。必要なのは、逃げられないことと、管理しやすいことだけだ。
夕食が思いのほか豪華だったのは、少し意外だった。とはいえ、聖女相手に兵士と同じ食事、まして囚人と同じものを出すわけにもいかなかったのだろう。
(リュミエルは……大丈夫だろうか)
三週間も離れるのは、初めてのことだ。
きっと、リュミエルも心配しているに違いない。
ちゃんと早起きしているだろうか。
余計なことを背負い込んでいないだろうか。
――暴走していないか。
それだけが、気掛かりだった。
扉をノックする音が、静かな室内に響く。
「はい。開いていますよ」
「失礼します」
入ってきたのは、鋭い眼差しのセラフィナ=ヴァルク異端審問官だった。
「朝食をお持ちしました」
台車を押して部屋に入り、無言でテーブルに朝食を並べていく。
「……異端審問官がする仕事ではない、という顔をしていますね」
「顔に出ていましたか?」
「はい」
短く答え、手を止めない。
「ですが、これは私の職務です。気になさらないでください」
人手が足りないから、という理由ではない。これは明らかに、私の監視、そして様子見だ。
彼女から漂う魔力は整然としている。だが、その奥に、ほんのわずかに揺らぐものがある。
疑念。あるいは、まだ結論を出し切れていないという証。
セラフィナ=ヴァルクは疑いながらも、職務としてここに立っている。それが、はっきりと伝わってきた。
「もし――」
窓から差し込む朝日が、セラフィナを照らした。その光は彼女を温めることなく、輪郭だけを際立たせる。
「聖女様が敵になるのであれば、私の魔法で跡形もなく消して差し上げます」
「……そうならないようにしたいですね」
「エルディオは甘い」
感情のない声で、断じる。
「貴女を庇い、自滅する可能性があります」
彼女は続ける。
「グレオンは、敵と判断すれば人形のように、貴女を壊すでしょう」
「……そのようなことを、口にしてよろしいのですか?」
「さあ、どうでしょう」
セラフィナは、わずかに首を傾ける。
「これは、私からの警告だと思ってください」
そして、はっきりと言った。
「私は、貴女が嫌いです」
言葉に迷いはない。
「だからこそ裁くのであれば、私の手で行いたい。それだけの話です」
その視線は、脅しではなかった。
事実を告げる者の目だった。
セラフィナの告白から数時間後。
私は、監獄塔の地下へと続く巨大な門の前に立っていた。
石と鉄を幾重にも重ねた扉は、閉じ込めるために存在しているというより――外へ出さないための最終線のように見える。
「この先には囚人たちがいます」
エルディオが、低い声で告げた。
「決して檻に近づかないでください」
その表情は、いつもより明らかに硬く、冗談や配慮の余地は一切感じられなかった。
門が軋む音を立てて開き、私たちは下へと降りていく。
石段は長く、深い。
一歩進むごとに、空気が重く、冷たくなっていくのが分かる。
やがて視界が開けた。
――巨大な空間だった。
円を描くように、壁一面に牢獄が穿たれている。数は、目算すらできない。
その中央には、底の見えない空洞が口を開けていた。
光は途中で吸い込まれ、落ちていく先を拒絶する。
奈落。そう呼ぶ以外に、言葉が見当たらない。
囚人たちの気配が、そこかしこから漂ってくる。
呻き、笑い声、意味をなさない独り言。それらが混じり合い、ひとつの低い唸りとなって、空間全体を満たしていた。
ここは、監獄塔。
聖王国内で捕らえられた重犯罪者が集められる場所。殺人、放火、テロ行為、組織犯罪。
法を破り、命を奪い、秩序を踏みにじった者たち。裁かれ、隔離され、そして忘れられる者たち。
彼らは、ここで生かされている。
赦されるためではない。
管理されるために。
私は無意識のうちに一歩下がっていた。
ここは地上の法でも、神の慈悲でもない。
人が人を封じるために作られた場所だ。
永遠とも思える階段を、ただひたすら降りていく。その間、囚人たちから投げかけられる言葉は、どれも酷いものだった。
殺してくれ。
出してくれ。
そんな懇願は、もはや当たり前だ。
中には、精神を完全に壊している者もいる。
女の姿を見ただけで発狂し、檻に身体を打ち付け、目を覆いたくなるような行動を取る者も少なくない。
――まるで、人間を展示した劣悪な動物園だ。
「聖女様には、お似合いの場所ではないと存じております」
エルディオが、申し訳なさそうに言った。
「これからお会いいただく方は、下層におります。少しだけ、我慢してください」
「……わかりました」
エルディオの声には、わずかな躊躇があった。だが、他の異端審問官たちは違う。
セラフィナも、グレオンも、表情を変えない。ここは彼らにとって、日常なのだ。
さらに進むと、大きな扉が現れた。
半開きになったその奥を覗いた瞬間、理解する。
――拷問部屋だ。
「ギャアアアッ!」
「痛い、痛い、痛い、痛いっ!」
「お願いだ……やめてくれ!」
悲鳴が、壁に反射し、絡み合い、空間を満たす。
人の業が集まり、それを“償わせる”ための場所。重犯罪者の末路だと片付けてしまえば、それまでだ。
だが、並べられた拷問器具を使い、繰り返される行為は、あまりにも悪趣味だった。
――それでも。
サイファは知っている。情報を引き出すために、拷問が有効な手段であることを。
そこに、慈悲も躊躇も不要だということを。
だが、ここにいる者たちは、すでに裁かれた存在だ。判決は下され、隔離もされている。
それでもなお、痛みを与え続ける意味が、私には理解できなかった。
これは尋問ではない。処罰でもない。
ただの消費だ。
拷問部屋をさらに下りると、空気が一変した。
それまで遠くで響いていた囚人たちの叫びは、壁一枚隔てた向こう側の出来事のように薄れ、下層は異様なほど静まり返っている。
――だが、囚人はいないわけではない。
確かに、そこに存在している。その気配は、上層にいた囚人たちとは比べものにならないほど研ぎ澄まされていた。
向けられる視線は、直接見えなくとも分かる。
皮膚を貫くような圧が、じわりと伝わってくる。
「この区画は、特定重要犯罪者が収容されています」
エルディオが、低い声で説明する。
「国をひっくり返しかねない者たちです。裁くことも、処刑することも容易ではない存在」
牢の内部には、目に見えるほど濃密な魔力が満ちていた。外へ漏れ出さないよう、幾重もの術式が施されているのだろう。
その様子は、まるで巨大な水槽で、中に閉じ込められているのは人の姿をした猛毒の生物。
(こんな化け物どもが、監獄塔の地下に眠っているとはな)
鳥肌が立つ。
距離があっても、強さがはっきりと分かる。
今のソルフィーユで、正面から勝てるかどうか正直、怪しい。
ここにいる者たちは、
触れてはいけない類の存在だった。
「……着きました」
エルディオたちに案内された先は、特定重要犯罪者たちの収容区画と、目と鼻の先にある部屋だった。
壁の厚さ、扉の造り、施された封印。どこを見ても、牢獄と言われれば納得してしまう。
――ここに足を踏み入れた瞬間、そのまま“収容”されても不思議ではない。そんな考えが、頭をよぎる。
だが、エルディオたちの態度を見る限り、それは考え過ぎらしい。
少なくとも、今は。
エルディオが扉をノックする。
重い音が、石の通路に響いた。
「どうぞ」
中から、落ち着いた声が返ってくる。
扉が開き――、そこに立っていたのは、どこかで見覚えのある人物だった。




