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ノワレ司書長と魔力基礎の本

 ミレニア大聖堂はとてつもなく広く、大きい。

 例えるなら、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂を二つ並べた規模だ。

 さらに周囲の関連施設も含めれば、もはや一つの都市といっていい。

 大聖堂を中心に神託院、治癒院、巡礼市場、貴族街が密集し、この一帯全てが国の心臓部になっている。


 俺はその巨大な敷地をゆっくりと歩く。

 皆、ソルフィーユの顔を知っているため、

 すれ違うたびに胸に手を当てて祈りを捧げてくる。


 慣れないが、表情には出さない。

 堂々と、聖女らしく歩く。


 しばらく歩くと、とある施設の前に辿り着いた。扉を押し開けると、羊皮紙と古いインクの匂いが鼻腔をくすぐる。


「あら、聖女ソルフィーユ様ではありませんか。昨夜、賊が入り込んだとかで騒ぎになっておりましたが、聖女様はご存じですか?」


 カウンター越しに声をかけてきたのは、大きな丸眼鏡をかけた黒髪の若い女性だった。おそらく図書室の司書だろう。

 昨夜の賊とは、窓から投げ飛ばしたアイツのことだろう。


「えーと……」


「あ、自己紹介がまだでしたね。ミレニア大聖堂図書室司書長、エストラ=ノワレと申します。以後お見知りおきを」


 丁寧に祈りの姿勢を見せるノワレ司書長に合わせ、俺も「聖女ソルフィーユです」と答える。

 

「聖女様が図書室に来られるのは珍しいですね。本日はどのような書物を?」


「魔力や神力について詳しく記載されているものと、聖王国についてわかりやすい本を数冊ありますか」


「魔力の基礎はB棚最上段、右から十冊目。魔力体系全書はその一段下、右から三冊目。神力はD棚上から三段目、右から十四冊目。聖王国建国史シリーズはA棚の上段から下段まで全てです。他にも必要なら、どこに何があるかお教えします」


「……ありがとう」


 あまりの即答ぶりに、思わず眉が上がった。まるで検索機能付きの機械のようだ。図書室全ての配置が頭に入っているのだろう。棚の一冊でも勝手に動かしたらどうなるのか、少し気になった。


 言われた通りにB棚へ向かうと、本も巻物も寸分のズレもなく整然と並んでいる。

 ノワレ司書長の言葉通り、魔力の基礎と体系全書が指定の場所にあった。


 その二冊を手に取り、空いた席に腰を下ろす。

 三十ページほどの薄い冊子だが、中身は文字でぎっしりと詰まっていた。


 ソルフィーユの知識で大半は読める。

 だが、一部の単語が理解できない。


「ノワレ司書長。この言葉の意味は?」


 近くにいた司書長を呼び、該当箇所を指差す。


「これは“器”についての説明ですね。器とは魂を収める容器のようなもので、形も大きさも千差万別。器の良し悪しは『格』で決まる――」


 ノワレは淡々としながらも、どこか楽しげだった。こちらが黙って聞き、疑問を投げるたびに、彼女の声は確実に滑らかになる。講義でもしているような落ち着きと、わずかな高揚が混ざっていた。


 器とは魂を収め、魔力や神力を保持する枠のこと。容量、耐久、律性、三つの性質で格が決まる。


 ノワレが語るその内容を、俺は淡々と聞き流しながらも、頭の中では別の計算をしていた。

 器の容量は燃料タンク、耐久は車体フレーム、律性はエンジン制御……そんなところか、と。


「その総合値って測れるものなのですか?」


「ええ、測れます」

 

 ノワレは胸を張り、どこか誇らしげに続けた。

 

「国内にいくつか測定する魔道具がありますし、ミレニア大聖堂なら倉庫に二基ありますよ。毎年の『器の儀』では、みなさんの一年のゲン担ぎも兼ねて測定します。聖女様も来堂した際に測っていますけれど……覚えていないのですか?」


「……そうでしたか? ああ、あれがそうなのですね」


 適当に合わせておいたが、ソルフィーユの記憶を漁ると確かに“何かに手を置かされた”場面があった。

 彼女自身は意味すら理解しておらず、大人たちが勝手に騒いでいた記憶だけが鮮明だった。


 測定値。俺がこの世界でどれほどの“器”を持っているのか、計ってみる価値はある。

 ソルフィーユの人生を奪った連中の器も、どうせならまとめて粉砕するついでに確認してみるか。


「機会があれば、もう一度私の器の格を調べてみたいものです」


「聖女様の器は神器格と呼ばれる最上級の格を持っていますから、改めて測る必要はありませんよ。むしろ今後は、祭事の際に“測る側”に回られるかもしれません」


「……そうですか」


 興味は無い。

 祭事も、聖女も、肩書きにも。


 本音を言えば、さっさと大聖堂を抜け出して、のんびりと第二の人生を楽しみたい。

 だが、ソルフィーユの記憶が、足首にぶら下がった重りのようにサイファを繋ぎ止める。


 利用されて終わる人生だったソルフィーユ。

 本来あり得たはずの未来、民を救い、悪を退け、恋をし、穏やかな余生を過ごす。

 そのどれもが現実には一度も訪れなかった。


 それを思うと、冷え切っていたはずのサイファの心が、じんわりと形を変える。

 おぞましいほど“壊す”ことに長けた生前の彼に、初めて拾ってやる、という発想が芽生えた。


 こうして静かに本を読む、たったそれだけの時間さえも、ソルフィーユの叶えられなかった願いの一つ。


 それを一つずつこなしていく。

 全部終わったら、その時は聖女を辞めて、風の通る方へ抜けていけばいい。

 そんな青写真をぼんやり描きながら、もう一度本を開こうとしたその時――


 図書室の扉が勢いよく開かれ、荒っぽい足取りが床を叩いた。


「聖女殿っ!」


 先頭の男が声を張り上げ、その後ろからリュミエルが申し訳なさそうに小走りでついて入ってくる。


 穏やかな時間が終わったことを、風より早く感じ取る。


 大柄で、髪を油分たっぷりのオールバックに撫でつけ、丁寧すぎるほど整えられた髭を生やした男が入ってきた。

 服装からして教会の高位聖職者、聖レイディア教の戒律院所属の人間だと一目で分かる。


 ソルフィーユの記憶を探ると、名前はヴァルド=ガンブレイ戒律官。

 教会内部の規律や政治的な序列を監視し、時には取り締る存在。さらに“聖女の行動すら制限できる権限”を持つ。

 直属は宰相府。

 つまり、宗教と政治の狭間で権力を握る、もっとも厄介な種類の人間だ。


 ソルフィーユはこの男を極端に恐れていた。

 それもまた、理解できる記憶だった。


「聖女殿。部屋に居ないと思ったら、こんな所に。リュミエルから昨夜の件は聞いているが、質問が山ほどある。同行されたし」


 図書室とは思えないほど大声で怒鳴る。

 ガンブレイ戒律官の声は、広い室内に刺さるように響いた。

 ノワレ司書長はぴくりと眉をひそめる。

 こういうタイプはどの世界にもいる。サイファは内心で評価を下す。


「昨夜は大変怖い思いをいたしました。ですので、少し気を落ち着けたくて……こちらで本を読んでおりました」


「まったく……器だけ立派でも、扱う者が未熟では話にならん」


 『器の格』と昨夜の事件はまるで関係が無い。

 だが、この男に論理や整合性を求めても仕方がない。

 感情を逆撫でするだけだと理解して、反論は飲み込む。


「ヴァルド戒律官様、図書室ではお静かにお願いします」

 

 ノワレ司書長が静かに釘を刺すが、彼は完全に無視した。


「聖女殿。場所を移す。ここでは話にならん」


 図書室は十分に落ち着ける空間なのだが、サイファはノワレ司書長にこれ以上迷惑を掛けたくないと判断し、静かに立ち上がった。


「ノワレ司書長、申し訳ありません。本を片付けておいてもらえますか?」


「かしこまりました。聖女様がまた読めるように整えておきますね」


 司書長の柔らかな声が背にかかるのを感じながら、ソルフィーユは無言で歩き出す。後ろでは、ガンブレイ戒律官の重い足音が、図書室の静寂を乱しながらついてくる。


 何やら波乱を含んだ三人は、図書館を後にした。


 



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