貴女の名は
間一髪だった。
あの投擲は、本来なら確実に失敗していた。
失敗すれば命令は即座に発動し、アルシェは自らの喉を裂いていたはずだ。
それでも、アルシェの咄嗟の機転と、執念にも似た意志が精霊を動かしたの感じた。
導かれるように放たれたナイフは、確かにナスターへと届いた。
この戦い、私一人で勝てただろうか。
否。
リュミエルが敵を引きつけていなければ、ナスターをこちらに縛りつけることはできなかった。
アルシェがいなければ、ドラゴニュートはおろか、ナスターにすら刃は届かなかっただろう。
そもそも――
トワレ司書長から、奴隷契約の「更新」について聞いていなければ、突破口そのものが存在しなかった。
全てにおいて、私は劣っている。
その思考を遮るように、奥で鉄格子が落ちる音が響いた。
「王子よ、申し訳ございません……。私が不甲斐ないばかりに――」
「アルシェ。僕は、君を責める気はまったくないよ」
「しかし……」
「いつも側にいてくれたじゃないか。こうして僕を救ってくれた。今は、それだけで十分なんだ」
「ナフティアル王子……」
どうやら、感動の再会らしい。
私は二人から視線を外し、大きく開いた壁の裂け目へと駆け出した。
あの先で、リュミエルと雷光のバルバトス=ジークフリードが戦っていたはずだ。
「リュミエル! 無事ですか!」
壁の奥は倉庫だったのだろう。
木箱や荷物が無惨に散乱する中、折れた装飾剣を胸に抱き、泣き崩れるリュミエルの姿があった。
「リュミエル、怪我は……。今、治療します」
バルバトスの姿はない。
ナスターから解放され、戦場を離脱したのだろうか。
神力を通した瞬間、彼女の状態が鮮明に流れ込んでくる。
右肩の骨折。左鎖骨の骨折。
脇腹の骨は左右ともに複数箇所。
全身打撲に、広範囲の内出血。
だが、それらは神力による「治癒」で、即座に全快する。
「怖い思いをさせてしまい、申し訳ございません。ナスターを仕留めるのに時間がかかってしまったのは、私の力不足が原因です」
「――ん」
「え?」
「私が……いけないのです!」
リュミエルは泣きながら、声を張り上げた。
「私がもっと強ければ、あんな冒険者など一太刀で倒せました! ソルフィーユ様の盾……私は失格です!」
「そんなことはありません」
私ははっきりと言い切る。
「リュミエルのお陰で、ナスターは倒せました。あれは、私一人で成し得た勝利ではありません。どうか、自信を持ってください」
「……バルバトスは、手を抜いていました」
「どういうことです?」
「わざとドラゴニュートから距離を取り、私と対峙するように誘導していました。その後は……時間を稼ぐかのように、私は遊ばれていたのです」
唇を噛みしめ、震える声で続ける。
「全く、手も足も出ませんでした。私は……ソルフィーユ様の聖騎士です。こんな不甲斐ない聖騎士なんて……」
今回の戦いで、リュミエルは自尊心を深く傷つけてしまったようだ。
そして、それは彼女だけではない。
今の私から、彼女に掛けられる言葉は多くない。
なぜなら、この戦いで己の弱さを、私自身が嫌というほど思い知ったからだ。
神力があっても。
魔力を得ても。
知識も、準備も、すべてが足りなかった。
個としての戦いであれば、まだどうにかなったかもしれない。
だが、対するのが組織となれば話は別だ。
情報収集、戦力の層、動員力――そのすべてにおいて、こちらは決定的に劣っている。
今回、奴隷王ナスター=ヘスペリアを撃破することはできた。
だが同時に、大きな課題を突きつけられた戦いでもあった。
「サイファ。上から……足音が聞こえる」
静まり返った空間に、アルシェの声が落ちる。
私はリュミエルの肩を抱き、急いで皆のもとへ戻った。
入口の方向から、複数人分の足音が、はっきりと近づいてきている。
「ここは危険よ。早く出ましょう」
「入口には人が来ますが……安全に脱出できるのですか?」
「奥に、隠し通路がある。付いて来て」
迷いのないアルシェの背に、ハイエルフの子が続く。
私たちはその後を追うように、薄暗い通路へと足を踏み入れた。
石壁に反響する足音。
背後で遠ざかる喧騒。
今回の奴隷オークションでは、魔物だけでなくドラゴニュートまでもが商品として並べられていた。あれほど目立つ存在を、正規の手段で大聖都ミレニアに連れ込めるはずがない。
この通路は、違法に奴隷を運び込むための裏道として使われていたのだろう。
しばらく闇の中を進むと、視界が一気に開けた。
頭上には満天の星空が広がり、冷えた夜気が肺の奥まで染み渡る。どうやら、いつの間にか大聖都ミレニアの防壁の外へ出ていたようだ。
「ここまで来れば安全よ」
「二人は、これからどうするの?」
「里に帰るわ。きっと皆、心配している。それに――この御方を連れ帰る使命が、私にはあるから」
「そう……。なら、アルシェとはここでお別れですね」
「サイファ……いいえ、聖女ソルフィーユ。貴女、いくつも名前を持っているのね。私も名前を書き換えられていたけれど思い出せたわ」
「えっと……」
「私の本当の名は、アルシェル=エル=ノア。もし里を訪れることがあったら、御礼も兼ねて歓迎するわ」
そう告げると、アルシェは風に溶けるように姿を消した。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「お互い名前が変わると大変ね」
ソルフィーユの小さな呟きも夜風にさらわれ、やがて掻き消える。
その直後、防壁の内側から警報の鐘が鳴り響き、大聖都ミレニアの夜を鋭く切り裂いていた。
▽
奴隷商ヤルクナ商会の地下には、いくつもの遺体が無造作に横たわっていた。
その中には店主ドルドンの姿もあり、商会の内情を深く知る者は例外なく殺されている。
「……はぁ。面倒ね〜。まさか私の分体ちゃんが殺られるとは思いませんでした。おかげで、こうして後始末をする羽目になるなんて……」
声も姿も異なるが、その口調は紛れもなく奴隷王ナスター=ヘスペリアのものだった。
黒い影は地下を徘徊し、生き残っていた関係者を淡々と殺戮して回る。そこに躊躇も感情もない。
牢に繋がれていた奴隷たちは、ドルドンの死と同時に全員が死亡していた。
生存者は、一人も存在しない。
「やはりルーガちゃんを殺したのは、聖女ソルフィーユで間違いありませんね。ですが、捕縛には失敗……。しかも、この国に放った奴隷ちゃんの大半を失うとは、大損失です」
軽いため息とは裏腹に、ナスターの声には苛立ちは感じられなかった。
「タイガーちゃんには申し訳ないですが……今は救出するのが難しそうです」
計画は大きく崩れた。それでも、ナスターは笑っていた。
失ったもの以上に、得たものの価値があまりにも大きかったからだ。
聖女ソルフィーユ。
彼女が抱える秘密は、どんな裏取引や奴隷よりも価値がある。いつしかナスターの関心は計画そのものから外れ、完全に聖女へと傾いていた。
「タイガーちゃんの件はベルクちゃんに任せて……一旦、この国を離れて色々準備しましょうか」
ルーガやベルクと共に練った計画への興味は、すでに薄れている。
代わりに思考を占めるのは、イレギュラーである聖女の存在と、その先に待つ混沌だ。
この先、どう転ぶのか。それを想像するだけで、ナスターは楽しくて仕方がなかった。
「聖女ちゃん、また会える日まで死なないでくださいね〜」
黒い影の鼻歌がやがて聞こえなくなる。
静まり返った奴隷商ヤルクナ商会。
ソルフィーユたちが立ち去った後、そこには死と狂気だけが残されていた。




