マスク作成依頼と、暗黒魔法の資料
翌朝、日課のルーティンを終えたあと、貴族を相手にした治療行為を行う。
貴族であれば、司祭や他の聖職者から治療を受けることはできる。それでもなお、聖女の手を選ぶのは、それが一種のステータスであり、信用だからだ。
実際、回復力には雲泥の差がある。
聖職者の魔法による治療は、即効性がなく、時間をかけて傷を癒していくものだ。
だが、神力は違う。
ほんの一瞬。
欠損すら、最初から存在していなかったかのように“そこにある”。
再生という言葉では足りない。修復でもない。
そもそも、力の向き――ベクトルが、この世界の常識と噛み合っていない。
神力聖典にも、それらしい記述はある。
だが理由については、「祈りによるもの」という一文で片付けられているだけだ。
あまりにも暴論で、説明を放棄しているに等しい。
よく分からない力だ。
だが、ルーガとの戦いを思い返せば、この力がなければ負けていた可能性は高い。
魔力もそうだが、神力についても極める必要がある。
命を代償にすることなく扱えるのであれば――過去の聖女たちより、よほど自由に使いこなせるはずだ。
(いずれ、過去の聖女についても調べる必要があるな)
この力が、いつから、誰に、どのように使われてきたのか。それを知らずに振るうのは、あまりにも危うい。
リュミエルと共に、ミラーナの工房を訪れた。
道中では騎士団の巡回が目に入る。これなら、職人を狙うタイガー商会の関係者も、迂闊に手は出せないだろう。
「ミラーナ、いますか?」
「はいはい、いらっしゃい。あ、先に言っておくけど、衣装はまだ完成してないわよ?」
「本日は、別件で参りました」
工房へ案内され、茶を出してもらう。
相変わらずの散らかり具合に、リュミエルは座る場所を見つけられず、立ったままだ。
「それで? 新しい依頼かしら」
「はい。急ぎで作っていただきたい物があります。リュミエル」
「ミラーナ殿、こちらを」
リュミエルが差し出したのは、マスクの仕様書だった。
素顔を隠せること。派手すぎないこと。周囲の視界を妨げないこと。実用性を最優先した内容だ。
「仮面舞踏会にでも出るの?」
「……似たようなものですね。三日以内に作れますか?」
「うーん。材料も揃ってるし、一日あればいけるわよ」
「それでは、二人分の作成をお願いします」
「了解。ミレニア大聖堂に送ればいい?」
「お願いいたします」
「おーし! 聖女様に似合うマスク作っちゃうぞー!」
「言い忘れましたが、身分を隠して行くので、本当に目立たないようにしてくださいね? いいですか?」
「ちぇっ。わかったよ。できたら送るから」
完成品を届けてもらえるのは助かる。
ミラーナの工房までの移動は、想像以上に骨が折れるのだ。
「あ、そうだ。ヨアンから連絡が来てね。手甲や具足を作れる職人の手配ができたって」
「それは、良かったです」
「軽くて頑丈な物をベースに、シャドウアウルの素材を縫い込むつもりよ。今から楽しみだわ〜!」
そこから先は、ミラーナの職人語りが止まらなかった。
素材の特性、縫製の工夫、重量配分――熱量は相変わらずだ。
一時間ほど経った頃、リュミエルの顔に明らかな疲労の色が浮かび始め、ようやく解放される。
帰りの馬車の中、リュミエルがミラーナの印象を語り始める。
帰りの馬車の中で、リュミエルがふと思い出したように口を開いた。
「初めてお会いした時から感じていましたが……ミラーナ殿は、肝が据わっていますよね」
「彼女はとても強かな女性です。盗賊に誘拐されていた時も、目が死んでいませんでした。救出後も、盗賊相手に魔法で援護してくれました」
ミラーナは強い。その強さは心の強さだ。
きっと、私やリュミエルが助けにこれなくても、魔法で切り抜けたに違いない。
そしてあの時、初めて“魔法”と呼ばれるものを目にした。
地面から伸びた植物が、まるで意思を持っているかのように盗賊の足を絡め取る光景は、今でもはっきり覚えている。
(魔法について、教えを請うことはできるのだろうか)
ただ、本人は得意ではないと言っていた。
彼女はハーフエルフで、あくまで「魔縫い」を専門とする職人だ。戦闘向きではないのだろう。
「ソルフィーユ様の前でも、普通に話されていますし……普通の方なら、恐れ多くて近づけないと思います」
「私は、リュミエルやミラーナのように、気軽に話してくれた方が気が楽ですね」
聖女という立場は、距離を生む。
だが、必要なのは畏敬ではなく、信頼だ。
馬車は静かに揺れながら、ミレニア大聖堂へと向かっていた。
▽
夜更け。
蝋燭の揺れる灯りの下、暗黒魔法に関する研究資料を机に広げていた。
資料は無造作に挟まれ、ページの端には書き込みや折り目が残っている。
術式そのものは難解で、理解できる段階ではない。
そのため、私は付随する解説や記録を中心に目を通していた。
暗黒魔法とは、『暗黒』と呼ばれる力を行使する魔法体系であり、主に魔族と呼ばれる種族が得意とするものらしい。
人間でも、ごく稀に行使できる者が存在するという。
魔族は、亜人と同じく人に近い姿をしており、人の言葉を話す。
だが、人間と明確に異なる点が一つある。
――人を襲う。
すべての魔族がそうだとは限らないようだ。
人間と生活圏が近いため、街に溶け込んで暮らす者も存在すると記されている。
(魔族、か……)
生前の私なら、こうした話はおとぎ話として切り捨てていただろう。
だが、ここは異世界だ。
何が存在しても不思議ではないし、むしろ存在する方が自然に思える。
資料によれば、暗黒魔法は大きく分類して、精神系、操作系、変化系、吸収系が確認されている。
その中で、今から約三百年前、聖王国歴千百年。『男爵』級の悪魔が三種類の暗黒魔法を使用し、聖王国ディオールを混乱に陥れた記録があった。
当時、聖女を中心に編成された聖騎士五千名が討伐に向かい、相討ちの末に終結したという。
(……ここにも、聖女か)
聖典にも似た記述がある。
聖女が命と引き換えに国を救い、敵国を薙ぎ払い、土地に命の恵みをもたらす――。
それらは寓話ではなく、神力によって実際に起こされた“奇跡”だ。
過去の聖女たちは命を代償に、この聖王国ディオールを繁栄へと導いてきた。
資料を読み進めるうち、ある点が気になった。
人の意識を操作する力。
記憶や行動を制限する魔法。
それらの多くに、暗黒魔法が関与している。
奴隷化の魔法は契約魔法であり、暗黒魔法とは系統が異なるとされている。
実際、先日見た奴隷たちから、明確な違和感は感じなかった。
だが――。
「……私の思い過ごし、でしょうか」
蝋燭の炎を見つめながら、息を吐く。
「暗黒魔法と、奴隷。子供の行方不明者に、人攫いたち……何か関係がある気がしたのですが」
確証はない。
論理も、まだ繋がらない。
それでも、この胸の奥に残るざらついた感覚だけは、簡単には消えなかった。
「……リュミエルには悪いですが、一度、侵入してみる必要がありそうですね」
もし、ナスター=ヘスペリアと対峙できるのであれば、それが最も手っ取り早い。
頭さえ潰せば、組織は瓦解する。
だが、そんな都合のいい展開が起きるとは思えない。
ナスターの所在は依然として不明だ。正体を掴めていない以上、迂闊な行動は避けるべきで、慎重さが求められる。
それでも――。
あの奴隷商が隠しているもの。
地下施設の構造。
戦闘奴隷の実戦レベル。
これらを把握しないまま踏み込むのは、あまりにも危険だ。
ルーガを殺した存在が動いている以上、相手はこちらの存在を認識している可能性が高い。
警戒していないはずがない。
罠を張っていると考える方が自然だ。
(それでも、確認しなければ前に進めない)
判断は固まった。
――今夜、潜る。
闇に足を踏み入れる覚悟は、すでにできていた。




