転生
目を覚ますと、覆面をした男が血濡れられたナイフを構え、まさに俺にトドメを刺そうとしていた。
反射的に男の手首を掴むと、スポンジを絞るように肉と骨が潰れる感触が伝わる。
男は悲鳴を上げ、ナイフを落としてベッドから飛び退いた。
「あー……ハンドラーの部下か? ……いや違うな。」
組織は壊滅寸前にまで弱らせていたが、それにしても動きが稚拙すぎる。視線は泳ぎ、呼吸は乱れ、精神状態は興奮と不安と恐怖で飽和している。
……ん?
観察に集中していたせいで、ようやく“自分の異常”に気づく。
身体が軽い。あの地獄のような追跡戦と、満身創痍の戦いの直後とは思えない。全盛期と同じ、いやそれ以上に澄んだ感覚。
だがそれ以上に気になるのは、胸にある柔らかい塊と、短い手足。
「……これはいったい……?」
困惑で隙ができたのか、男が腰から別のナイフを抜き、叫びながら飛びかかってきた。
「状況の整理ができん。事情を説明しろ」
「聖女よ、大人しく無に帰るのだ!」
意味が分からない。
“聖女”? 俺が?
聞き間違いと思いたかった。
男の突きを受け流し、ナイフの柄で胸骨中央の急所を正確に突く。
さらに前蹴りを叩き込み、男の身体を後方へ弾き飛ばした。
壁に叩きつけられた男が苦痛の声を上げる。
「ぐっ……聖女が武術を? そんな情報は……ないはずだ……!」
「……聖女。俺が、聖女……?」
その言葉を反芻した瞬間、頭の奥で何かが噛み合う音がした。
記憶。
白く弱い少女、ソルフィーユの人生が流れ込んでくる。
暖かく、暗く、そして痛い。孤児として生き、聖女に選ばれ、酷使され、そして殺された。理不尽な死。悲鳴のような祈り。
その空白になった肉体に、俺、サイファの魂が入り込んだ。
理由は分からない。
因果も理屈も知らない。
だが、答え合わせは後でいい。
今この瞬間、優先すべきはひとつ。
「……まあ、いい。理由なんてあとで見つければいい。まずは、目の前の敵を殺す」
その瞬間、少女の体に宿った黒い魂が、静かに獣のように笑った。
相手と自身の差を確認する。
相手の武器はナイフ、その他にもあるかもしれない暗殺者。体術はそれなりに身に着けているようだが、経験が浅いようだ。
そして、この体。若い女の体で運動はしていない。筋肉も人以下でまともな戦闘はできないと思いきや、体の奥底から溢れる謎の力が、全身のリミッターを外しているようだ。
相手の動きもよく見えて追えるし、あいつの片腕を捻り潰した力。前腕骨には橈骨、尺骨と呼ばれる太い二本の骨がある。その骨を砕ける握力はおよそ、三百キロ。まだ余力を残しているので恐らくそれ以上のパワーがある。
一瞬、俺は女ゴリラになったのかと錯覚し、口角が吊り上がる。
男はソルフィーユが笑ったのを見て、背筋がゾッとした。過去の文献に、範囲を覆した聖女が存在したが、軍隊を送り込んでやっと打倒したという話だった。今、目の前の聖女が、弱った聖女を演じていたとすると、男の判断は間違いであり、国としても危機的状況に陥ったといっていいだろう。
聖女暗殺は失敗、上層部に報告して次の一手を打たなければ、取り返しのつかないことになると判断した男は、窓に視線を送る。
「逃げるつもりか?」
男の視線と細かい動きから、戦闘より逃走する確率が高くなった。今逃げれたら困る。こいつから聞き出したいことが山程あるのだから。
男が一直線に窓に向かう。
俺ベッドを蹴り、男の進行方向を予測して飛び込む。
矢の如く鋭い蹴りが、男の顔面に直撃。意識外飛んだ男は三回転し壁に激突した。体重が軽いので、蹴り威力はないが、この肉体は人外的な動きをするので手加減が難しい。
この男との戦闘で上手くコツを掴みたい。
「起きろ」
水差しに入った水を顔に掛けて、無理やり覚醒させる。
「気が変わった。もう少し俺と会話をしながら殺し合おう」
「ふ、ふざけやがって!」
折れていない、左手が突き出される。男は無手の状態だったが、違和感を感じる。咄嗟に距離を取ると、何も無い空間を黒い刃が現れ、鼻先を掠める。
「面白い技だな。どうやったんだ?」
「ちっ」
男は奥の手まで見切られて焦っていた。この場から一刻も早く離脱し、報告しなくてはいけない。しかし、目の前の聖女の洞察力、身体能力が常人以上、この世界で身体強化をおこなった上位冒険者と変わらない動きをしているのだ。
男も体の中の魔力を練って身体強化をおこなうが、それでも目の前の聖女に対して勝てるかというと、分が悪いと感じる。
先程放った、魔力剣を放ったが完全に見切られていた。
「くっそおおおっ!」
そこからは一方的な戦いだった。ソルフィーユの体がどこまで動けるか、目の前の暗殺者の男を使って実験した。とはいっても十分程度の時間だったが濃密な時間で、戦闘の終盤になると、男は膝を突いて動きを止めてしまった。今なら簡単に首をはねることができる。
しかし、男から情報を引き出さなくてはならない。
「俺を狙った理由、構成員、黒幕を話せ」
「……」
「暗殺者は口を割らないのは知っている。弱みを握られるような存在はいないし、名前や過去だって捨てているだろう」
ソルフィーユは男のマスクを剥ぎ取る。そこには三十代の男が睨みつけていた。中東寄りの顔立ちの男の目は、まだ殺気が残り、チャンスがあればソルフィーユの首に噛みつこうとしてくるとだろう。
「暗殺者に対して即殺すのは定番だが、俺は情報が欲しい。早く楽に死にたかった情報を吐けばいい。まずは一本」
男の左手の小指を逆方向へ折る。
骨の砕ける乾いた音が室内に響き、男は息を呑んで悲鳴を漏らした。すかさず隣の指を同じ方向へ曲げる。
「人間の骨は二百六本ある。
さて、何本折ったらお前は話す気になる?」
幼い少女の顔から発せられたとは思えない声だった。男はガタガタと震えだす。拷問の訓練は受けてきたが、この聖女から漂う“何か”は違う。
これから始まるのは訓練で済むレベルの痛みではない、そう直感した。
男が生き延びる選択肢はひとつ。
知っていることを全て吐くことだけだ。
「し、聖女暗殺の首謀者は……王国関係者だと思う」
「思う?」
「お、王国内の盗賊ギルドに依頼が来たんだ……!」
盗賊ギルド。裏社会の組織と判断し、俺は続きを促す。
「俺はソロの暗殺者だ。今回の依頼者は不明。聖女暗殺成功で……白金貨百枚。他は知らない。本当だ」
「半分本当で、半分嘘だな」
「う、嘘じゃ――ああっ!」
中指を折る。
嘘は視線、呼吸、汗、筋肉の収縮で分かる。この男は任務を隠しつつ、言ってもいい情報だけ混ぜている。
「盗賊ギルド、報酬の額は本当だろう。聖女を殺したい奴なんていくらでもいる。問題は――お前が単独か、組織かだ」
俺は男の掌に短剣を深々と突き刺し、床へ縫いとめた。
折れた片腕では抜けない。
「ぐ……ぅぅ……!」
「次は人差し指だ」
「ま、待てっ! 宰相――宰相のメルドラ様だ!」
「ほう」
宰相。国のナンバー二が聖女暗殺とは実に興味深い。
「理由を言え」
「……聖女が死ぬ理由はいくつかある。聖女の反乱、聖女の力の消失、他国への逃亡、寿命……。今回は聖女の力が弱まり、公務に支障が出た。だから新しい器を選定し、聖女ソルフィーユの処分が決まった……!」
なるほど。その処分の瞬間に、俺がこの身体へ入り込んだというわけか。
死ぬ運命だった俺が、聖女の身体。
皮肉にも程がある。
「国が聖女を使い捨てにしているのが分かった。なら次は、お前が使っていた技を教えろ、無手の状態から刃を出したアレだ」
反応が遅れていたら首を落とされていた。あの技は見たことも聞いたこともない。この男が使えるなら俺にも使えるかもしれないと思ったからだ。




