赤煙の最後
ルーガが床を砕いて突進した。
サイファは黒焔を纏った刃を構える。
常識外れの強化を施した化物と、黒焔を纏う暗殺者が激突する瞬間だ。
ナイフとナイフがぶつかり合う。金属音は鋭いはずなのに、赤煙がそれを鈍らせ、湿った空気の中へ吸い込んでいくと同時、次の瞬間、空気が爆ぜた。
衝撃波で室内のガラス瓶が割れ、薬液が噴き散り、乾燥葉が舞い上がる。赤、黒、そして薬品の匂いが混ざり合い、視界がゆっくりと溶けていくようだった。
思考が加速する。時間が引き延ばされたように遅く流れる。だが、その加速さえ赤煙に弄ばれている気配があった。
黒焔と赤煙が押し合い、拮抗する。いや、押し負けつつある。
(……奴の魔力、何かがおかしい)
赤煙が黒焔に触れた瞬間、まるで腐食するように侵食してくる感覚があった。魔力基礎の本に記載されていない現象か、通常の魔力干渉では起きない現象だと思われる。
赤煙そのものが他者の魔力の位相を狂わせる性質を持っている、そう直感する。
しかもこの空間全体が甘い匂いに満たされ、神経伝達のタイミングを狂わせてくる。これはただの薬品ではない。ここに漂う空気そのものが、ルーガの魔力に変換されている。
つまり、この部屋は丸ごとルーガの身体強化装置だ。彼にとっては栄養で、サイファにとっては毒。
「どうしましたか。身体の動きが鈍いようですが?」
ルーガは血走った瞳で笑う。焦点が合っていないのに、こちらの動きだけは正確に捉えている狂気の目だった。
「ふん。お喋りなやつだ」
サイファは短く吐き捨てる。すでにルーガの右肩には一太刀が入っていた。黒焔が触れた傷は浅くても焼け焦げている。
「君はとても器用ですね。動きの補正が美しい。しかし、このままでは私に勝てませんよ?」
ルーガは肩の傷を気にも留めず、さらに一歩踏み込む。
「さぁ、次の一手を見せてください。キミの修正能力がどこまで通用するのか興味がある」
サイファは再度呼吸を整えた。だが、遅れを利用して動きを合わせていた身体が、ここに来てランダムに揺れるように狂い始めた。
黒焔が揺らぎ、赤煙の圧が増す。身体の動きが数式から外れるように乱れ、補正が追いつかない。
ルーガはその変化を見逃さない。
「ほら、ズレてきた……! 魔力と脳のリンクが乱れている。美しい……! キミの限界点が見えてくる……!」
赤い煙がさらに渦を巻き、室内の空気そのものが歪み始めた。壁も床も波打つように揺れ、距離感が狂う。真っ直ぐ踏み込んだつもりが、足元が半歩ずれる。
一閃。避けたはずの刃が腕をかすめる。また一閃。回避のタイミングが、赤煙に引っ張られて遅れる。
サイファの身体に細い傷が積み重なっていく。温かい血が腕を伝い、赤煙と混ざり合う。出血の量は多くないが、体力をじわじわ奪うには十分だった。
「……ん〜、終わりですかね」
ルーガは甲高い声で笑う。
「まぁ、何人か暗殺者を返り討ちにしましたが……君が一番強かったですよ。いや、本当に。良いデータが取れましたし、新しい薬のインスピレーションが湧いてきました」
サイファは片膝を突き、荒い呼吸を整えようとする。胸が上下に大きく揺れ、肺が赤煙を嫌うように軋んだ。
ランニングで鍛え始めたとはいえ、まだ体力不足は否めない。身体能力の差を魔力で埋めようとしても、黒焔纏の制御は未成熟だ。
魔力操作も書物で読んで知識がある程度で、実戦で使ったのは金鎖の騎士に使ったきり、今回が二度目に過ぎない。
黒焔が小さくなり、体が怠くなっていく。
今のままでは、目の前の凶人には刃が届かない。
赤煙に満ちた空間で、ルーガの笑みは揺るがない。
この状況で逆転する要素など、もはや存在しないと信じ切った者の表情だ。
(……一泡吹かせるには、もう手段を選んでいられない)
腕から滴る血を握りしめ、サイファ――いや、ソルフィーユは静かに立ち上がった。
「……おや、まだやる気ですか?」
ルーガは面倒そうに首を傾ける。
「もうデータは取りましたし、薬の開発に戻りたいんですよ。終わりにしましょう……死んでください」
ルーガのナイフが赤煙を裂いて迫る。
その瞬間――。
『体内の毒を取り除き、傷を癒せ――全快』
肉体の奥底で神力が『器』に満ちる音がした。
銀の瞳に幾何学的な紋が浮かび、その輝きは黒焔を飲み込みもしなければ、反発もしない。
ただ、共存していた。
魔力と神力という本来相容れぬ力が揺らぎ続ける姿は、常識外れそのもの。
ソルフィーユの身体に走る痛みが一瞬で消え、血の匂いさえ薄れる。
次の刹那――。
ルーガの手が宙を舞った。
「……?」
理解が追いつかないまま、自分の手首を見つめ、ようやく痛みを感じたのか、ルーガの瞳が大きく見開かれた。
「……これはこれは……大変驚きました」
その声には、恐怖ではなく純粋な興奮が混じっている。
「君は……聖女ソルフィーユだったのですね」
ターバンとマスクが赤煙に流され、髪が露わになる。
銀に輝く髪は光の角度で虹を落とし、黒焔と神力が混ざり合わず、互いの領域を侵犯せず揺らめく。
本来ならあり得ない――。
『神に愛された器でありながら、闇をも纏う存在』
「……ふう。薬物は体に悪いな」
視界が完全に澄み渡ると、体の具合を確かめるように手足を動かす。
赤煙の影響も、身体のズレも、思考の濁りもすべて消えた。
神力が満ちていれば、毒などただの異物にすぎない。
それは、麻痺毒の製作で自分の身体を使って確かめた事実。
全身を覆う黒焔が静かに揺らめき、神力の光がそれを包む。
――さあ、反撃開始だ。
地面に落ちた自分の手首を見下ろしながらも、ルーガは笑っていた。
常人なら絶叫する場面で、彼の興味は逆に跳ね上がる。
「す、素晴らしい……! 斬撃の軌道が見えなかった……! いや、違う、軌道そのものが存在しなかった……? そもそも、何をしたんだ?」
血を滴らせながら、足取りもふらつきながら、なおも興奮が止まらない。
お互いナイフが届く距離で高速で切り合う。
ソルフィーユの瞳に浮かんだ幾何模様の光。
黒焔と神力が互いを侵食せず、二重螺旋のように揺らめく。
「ん……なんだその魔力……神力……? いや、そんなはずは……! 共存するなんて理論上不可能だ! 魔力は生命の燃焼、神力は命を代償に……そもそも波長が違う……! なら、どうやって……!」
ぶつぶつと呟きながら、震える指先をソルフィーユへ伸ばす。
「教えてくれ……君の中で何が起きている……? 魔力器官はどこだ……? 神経伝達は? 筋収縮率は? いや、違うな……君の存在そのものが……」
彼の白衣は既に血で汚れ、ボロボロになった身体で一歩進む。
分析する目を、完全に興奮の色に染めて。
「理解したい……! 理解できるはずだ……! ここまで観測できている……あと少しで……わたしは……聖女ソルフィーユ、君に触れられる!」
その瞬間。
ソルフィーユの瞳が、静かにルーガを見た。
感情も温度もない、ただの視線。
黒焔が揺らぎ、神力が光り、二つの力が調和の輪郭を描く。
それを見た瞬間、理解してしまった。
自分では触れられない領域。
研究対象ではなく、ただの人間が踏み込めない側。
解析することも、到達することも不可能な天上の存在。
「あ……?」
ルーガの表情から狂気が抜け落ちた。
代わりに入り込んだのは、純粋な恐怖だった。
「……あ……ああ……ぁ………?」
喉が震える。
足が勝手に後ずさる。
身体強化で膨れあがっていた筋肉が、急速に冷え萎んでいく。
「な……なんだ……これは……? く、薬が切れたのか……?」
サイファが、ゆっくりと一歩踏み出す。
その歩みだけで、赤煙が割れた。
黒焔と神力が彼女のシルエットを神話のように照らす。
「待て……来るな……来るな……来るな……来るな……!」
初めてルーガ=ヴァーミリオンが研究対象を恐れた。
「この私が……いや、まだいける! 到達できる……そうだ、あの試作品を使えば……!」
ルーガの瞳孔が異常なほど開く。
サイファから距離をとり、荒れた机を手探りでかき分け、赤黒い液体の入ったガラス瓶を掴む。
「ふふ……ふははは……! これだ……これがあれば……私は……!」
ガラス瓶ごと噛み砕き、液体が喉を焼きながら流れ込む。
その瞬間、ルーガの全身が震える。
赤煙が一段階、濃くなった。
さらに濃く、そして、ドス黒く変質した。
煙が室内を飲み込み、視界を奪う。
その中心で肉が膨張し、骨が軋む音が響く。
煙が割れ、そこに立っていたのは、もはや人間ではなかった。
瞳は漆黒に沈み、皮膚は赤黒く変色し、血管が蛇のように浮き上がって脈動している。
魔力の圧が形を持ち、皮膚の下で暴れているのが分かる。
「アアッ……アアアアアッ! 気分が……最高だッッ!! 今なら……聖女ソルフィーユ……いや、君そのものを超えられるッッ!!」
次の瞬間、ルーガが消えた。
いや、速すぎて見えない。
左拳が空気を裂き、サイファの眼前に迫る。
だが――、
「薬の過剰摂取は体に悪い」
サイファの声が落ち着きすぎていて、逆に冷たく感じる。
そして、遅れて音が響いた。
ドスッ。
床に転がるのは、ルーガの左肩から切断された腕。
「な……なぜだッ! 私は……この研究に人生を捧げたッ……人を越える薬を……最高にハイになれる力を……!」
怒りと狂気が混ざった叫びとともに、ルーガの体から赤煙が噴き出す。
渦を巻き、サイファを包み込むように襲いかかる。
しかし、黒焔が煙を飲み込んだ。
触れた瞬間に、音もなく吸われて消える。
黒焔が満足したように揺らめき、その縁に神力の光が淡く灯る。
「……不味い煙だな。ヤク中だからか? まあ、俺の神力の足しにはなるが」
「わ、私の……魔力が……!? く……食われて……いる……のか……? か、返せ……返せぇッ!!」
ルーガの絶叫が室内に響く。
赤煙が黒焔に触れるたびに、その魔力が削られていく。
肉の下で暴れていた魔力が制御を失い、皮膚の奥から悲鳴を上げる。
「や、やめ……! それ以上吸われたら……私の“器”が……壊れ……!」
サイファは一切動かない。
動く必要がなかった。
ルーガは地面をのたうち回り、悲痛な声を上げるが、容赦なく黒焔がルーガの魔力を器から食い尽くす。
足元で独り言のようにルーガが嘆く言葉が聞こえた。
「……理解……できな……いや……まだ……だ……。塔の奥で……待って……いるのに……。私……は……未……完……の……まま……」
激しい戦闘の余韻がまだ残る中、ルーガ=ヴァーミリオンが残した資料を確保しようと机に手を伸ばした瞬間、
――ズズゥン、と地の底が呻くような音が響いた。
耳鳴りではない。空気が揺れ、足元の石畳がわずかに震えている。
続いて、天井の苔がぱらぱらと落ちてきた。
振動は一定ではなく、徐々に大きく、そして近づいてくる。
「……まずいな。惜しいが撤退を優先させる」
判断は即断だった。
旧下水道はすでに崩壊寸前の構造物だ。
先ほどの戦闘で何度も壁や床に衝撃が走ったせいで、負荷の限界を迎えたのだろう。
証拠の資料。
ルーガの研究記録。
麻薬の製法や流通経路、どれも喉から手が出るほど重要。
だが、ここで死ねば本末転倒だ。
天井から落ちる石片が大きくなる。
足元の赤煙の残滓を、崩落の風が散らしていく。
サイファは振り返ることなく、影のように走り出した。
地鳴りはさらに巨大な唸りとなり、通路の奥から瓦礫が崩れ落ちる音が続く。
崩壊の連鎖が始まった。
迷宮のような下水道を、来た時よりも速く駆け抜ける。
身を切る湿気と薬品臭の中、ただ出口だけを目指して。




