接触、赤煙のルーガ
廃屋の扉を押し開くと、湿った空気が肌にまとわりついた。部屋の中央には、不自然にぽっかりと穴が空いている。周囲の床材だけが新しく、人の手で新しく補強された後がある。穴の奥には、錆びた鉄梯子が地下へ向かって伸びていた。
ここが旧下水道へ通じる入口なのだろう。
梯子を降りるにつれ、腐敗臭と薬品臭が入り混じったような、形容しがたい臭気が鼻腔を突いた。腐った油、濁った水、そして……甘い香り。
甘い匂いに思えるそれは、嗅覚の錯覚ではない。化学物質が空気中に漂っている。サイファの直感、長年、殺気と毒物の気配に晒されてきた感覚が、警告音のように鳴り響いた。
これは……精神刺激剤の揮発成分か。
視界がわずかに波打った。色の境界が揺れ、奥行きが不安定に見える。ソルフィーユの身体は健康だが、この空間に充満する薬物の微粒子が神経系を揺らしている。
長居は危険だ。
気休め程度だが、マスクを深く被り直し、呼吸を浅く整える。
通路へ足を踏み入れると、冷気が肌を刺した。地下道は古い煉瓦と黒ずんだ石垣で囲まれ、壁面には結露の滴が光を反射している。脇には細い水路が走っていたが、水は黒く濁っており、流れの行き先は見えない。
ボコ、ボコ、と小さな泡が浮かぶ。かつて下水だった名残か、あるいは薬品廃液が混じっているのか判別できない。
足音は湿気に吸収されるように静かに溶けた。遠くで機械の稼働音のような低い唸りが響く。
ここはただの旧施設ではない。地下に造り変えられた何かが確かに息づいている。
旧下水道は薄明かりのランプが等間隔に灯されていた。大聖堂内でも使われていた魔道具の灯りだが、これだけの数を地下に並べられるのは並の組織ではない。灯火の魔道具は高価で希少、スラムの地下に揃えるなど本来あり得ない。ここを管理する勢力の資金力と影の深さがよくわかる。
奥へ進むほど、赤い匂いが混ざり始める。甘く、喉につくような刺激臭。麻薬の成分が霧のように漂っているのだろう。
角に差しかかった瞬間、気配が動いた。
サイファの身体が反射で前へ流れる。出会い頭、顎下に最短距離で手刀を叩き込む。衝撃は一点に集中し、男の膝が折れる。
「……」
倒れる音を吸収するように腕で支え、そのまま静かに地面へ転がす。念のため武器を抜き取り、壁際に寄せておいた。殺す必要はない。障害が排除されれば十分だ。
さらに奥へ進むと、赤い煙が視界を揺らし始めた。甘さが濃くなり、鼻腔にまとわりつく。わずかな幻覚作用があるのだろう。灯火の輪郭さえ揺れる。
やがて、地下道の突き当たりに部屋が見えた。
その内部は、赤い煙に照らされて不気味な光を放っている。
覗き込むと、そこは明らかに工房だった。ガラス瓶が無数に並び、中には液体、粉末、色の変わった薬草が詰められている。壁一面に並んだ棚には、見たことのない草が栽培され、管と管がつながり、奇妙な回路のように蒸気を循環していた。
機械音と、呼吸のように脈打つ赤煙。その中心に狂気を孕んだ研究があることは、言われずとも理解できた。
薬品の匂いが充満する工房の奥へ足を踏み入れると、赤煙の層の向こうに背中が見えた。焦げ茶色のボサボサの髪。皺だらけの白衣。研究者特有の猫背。タイガー商会の幹部の一人、ルーガ=ヴァーミリオン、それ以外あり得ない。
「……上の連中、というわけでもなさそうだね」
男は振り向かずに言った。鼻にかかった掠れ声だが、言葉の端々が異様に研ぎ澄まされている。
「どこからネズミが入り込んだかな?」
気配は完全に消したはずだ。それでも見つかる――つまり、相当の感覚の鋭さだ。
一気に間を詰めようと、床すれすれに姿勢を落とした瞬間。
ルーガが振り向きざまに指を弾いた。光を反射した金属片が、ほぼ真っ直ぐに眉間へ飛んでくる。
ナイフの柄で弾いた瞬間、金属の重さと回転で指が痺れた。常人の投擲ではない。
「ふむ。並の人間の動きじゃないね」
ルーガの瞳孔が、薬で拡張したまま細かく揺れている。
「体型からすると若い女。暗殺者かと思いきや、筋肉量が足りないねぇ。なんだかチグハグで面白い」
鋭い。まるでこちらの身体構造を瞬時に解析しているようで、サイファは小さく舌打ちした。
「お前、ルーガ=ヴァーミリオンだな」
「そうだよ。ちょうど新しい薬の実験中なんだ。邪魔しないでくれる?」
軽く言うが、視線は笑っていない。いや、笑うという感情そのものが壊れている。
「お前を排除する」
ナイフを構え、床を舐めるように滑る。赤煙を裂き、一瞬で斬撃の間合いに入った。
だが、斬り上げの軌道に、軽い衝撃が走る。
ルーガのナイフが、ほぼ無造作にそこにあったのだ。
「おっと、これは驚いた。殺しの軌道だ。遠慮がなくて、とても良い」
爪で弾くような軽い受け流しにも関わらず、その反応速度は常軌を逸している。男の身体がふらついて見えるのは薬による幻覚ではなく、体の制御が常に逸脱しているのに、それでも完璧に反応できるという異常性だ。
ただのマッドサイエンティストではない。外で見た薬中の兵士とも違う。ここにいるのは、薬物で脳の限界を破った戦闘研究者だ。
サイファは、わずかに呼吸を整え直す。相手を処理対象から、要対処戦術級へ引き上げた。
赤い煙が肺に触れた瞬間から、違和感はあった。
熱でも寒気でもない。
身体の内部で何かがひとつズレたような感覚。
床を蹴ると、わずかに力が遅れる。
視界の端が、羽虫が飛ぶようにちらつく。
反応速度はまだ健在だ。だが、感覚と身体が同期しない。
その一瞬をルーガが見逃すはずがない。
「ほら、効いてきたね。赤煙は脳の補正機能を逆回転させるんだ。動けているつもりで、ズレてるよ」
ルーガの声が、笑っているのに死んでいる。
サイファが踏み込む。
横薙ぎの一閃。
通常なら、顎下から鎖骨にかけて切断できる完璧な角度。
だが、ルーガの身体が煙のようにずれた。
避けられたのではない。
自分の感覚が一瞬遅れただけだ。
「うん、いいよ、その殺意。実験データに最適だ」
白衣の袖が揺れる。
その中から、刃が飛ぶ。
サイファは下がりながら弾いたが、火花はいつもより大きかった。
手に伝わる重さが、読めない。
次の瞬間、ルーガが距離を詰めた。
薬物で強化された身体能力が、常識的な人間の軌道ではない。
膝、肘、刃、そして意味の分からない関節の動きが連続で襲いかかる。
サイファはその全てを読む。
だが身体がワンテンポ遅れる。
肘が肩に当たる。
骨が軋む音。
肺から空気が漏れる。
「……なるほど。攻撃の予測精度は本物だ。でも身体がついてきていない。それが私が作った『赤煙』の真価さ」
サイファは息を整え、足元の重心を切り替える。
感覚がズレるのなら、
ズレた状態で正確に動くモードに切り替えればいい。
脳内の演算を強制的に切る。
身体の反射だけで動く無思考戦闘。
ルーガがニヤリと笑う。
「来るね。そうじゃなきゃ困る」
再び激突。
今度はサイファが遅れを計算に入れて攻撃する。
ルーガの腕を弾いた瞬間、逆回転で肘打ち。
ズレを利用した角度が、白衣の胸元を裂いた。
ルーガの血が煙に溶け、赤が濃くなる。
「いいねえ……! 想定外を上書きしてくる戦い方! キミ、本当に最高のデータになる!」
ルーガの瞳孔がさらに開く。
薬を追加で吸ったのだ。
赤煙が濃度を増し、視界が液体のように揺らぐ。
――このままでは意識を保てない。
サイファは呼吸を一つにまとめることに意識を集中させる。
感覚が狂わされても、殺しの最適解は変わらない。
体の奥底にある器から魔力を押し出す。
黒炎が皮膚の下を走り、やがて全身を静かに包み込んだ。
身体強化・黒炎纏。
魔力が黒い炎へと変質し、空気の層を歪ませる。
揺らめく影が輪郭を曖昧にし、刃に宿った黒炎は、触れたものを切断するというより焼き切る性質へと変わる。
ルーガはその姿を見るなり、瞳孔をさらに広げた。
恐怖ではない。
純粋な狂喜。研究者としての飢え。
「す、素晴らしい……! 魔力をここまで精密に扱えるのか!? 何なんだ君は、どういう構造なんだ!? 知りたい、知りたい、知りたい!」
「知りたければ、俺を倒すんだな」
低く、黒焔が唸るような声で返すと、ルーガは白衣のポケットを漁った。
「ならば、実験だ」
注射器を取り出した。
中には赤黒い液体。粘性があり、瓶の内側をゆっくりと流れ落ちている。
ためらいなく、自分の首筋に突き刺した。
次の瞬間、ルーガの身体が痙攣した。
心臓の鼓動が、部屋の空気を震わせるほど大きくなる。
ドン、ドン、ドン、と壁面が共鳴するような異常な音。
皮膚が内側から脈動し、血管が浮き上がる。
その全てから赤い煙が滲み出し、まるで体内に赤煙の炉があるようだ。
「は、はは……! 見える、見える……! 魔力の流れが……ッ!」
ルーガの視線が、サイファの黒焔を正確に追っていた。
薬物で知覚が強制的に拡張されている。
反応速度も跳ね上がっていく。
ルーガの身体の周囲で揺らめくのは、魔力の残滓。薬の作用で強引に身体強化へ転換しているらしい。
赤煙が濃くなる。
黒焔と対照的に、赤煙が渦巻き始め、二人の間の空気が反発し合う。
「さあ、始めよう! 君の魔力と私の魔力、どちらが最高にハイになれるか!」




