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スラム街、闇から闇へ

 深夜。街路を照らす月明かりの下、小さな影が屋根から屋根へ、影から影へと溶け込むように移動していた。


 光を受けたその姿は一瞬、妖精のように煌めき、次の瞬間には霧のように消える。流れるような動きは幻想的で、まるで夜に溶け込むためだけに生まれた存在のようだった。


 街は眠り静まり返っているが、夏の虫たちの声がその静寂をかすかに揺らしていた。その雑音が、小さな影の足音を完全にかき消してくれる。


 グランデル商会の近くの屋根へ降り立ち、そっと下を覗き込む。そこには四人の男女がいた。冒険者らしい装備をまとい、忙しなく周囲を見渡しながら警戒を続けている。


 ヨアンが言っていた夜間警備の者たちだろう。だが、その中の一人がふと顔を上げ、鋭い目でこちらを睨んだ。


「……? 誰か、屋根の上にいるな」


 気づかれた。


 咄嗟に身を引き、闇へと身を滑らせる。瞬時に距離を取り、屋根から屋根へと跳ねるように移動する。


 あの反応速度、あの耳の動きは獣人のガルドだ。ランニング仲間の中でも群を抜いて感覚が鋭い。下手をすれば、ソルフィーユである自分を見抜かれかねない。


 相手の正体がわかっているとはいえ、今は接触すべきではない。こちらの動きを悟られないよう、慎重に距離を取るに越したことはない。


「……ふう」


 人気のない梁の上に降り立ち、マスクを外す。


 ひんやりとした夜気が頬を撫で、白くシミひとつない肌が月明かりに浮かび上がる。


「ヒリつくこの感覚……懐かしいな」


 胸の奥で燃える、かつての“狩人”としての血のざわめき。

 ソルフィーユではなく、サイファとして動く夜が、いよいよ始まろうとしていた。


 


 ガンブレイ戒律官から受け取った資料を読み進めるにつれ、タイガー商会という組織の異様さが浮かび上がってきた。


 裏稼業とは思えないほど統制が取れており、資金、人員、裏取引。どれもが高度に最適化されている。もしグランデル商会の持つ生産、ロジスティクス管理のノウハウまで奪われれば、一商会の枠を超え、もはや『小さな国家』として成立する規模に膨れ上がるだろう。


 危険極まりない。


 だが、その中心にいるトップ、ダグラス=タイガーは姿を滅多に見せないという。姿を見せたとしても影武者なのでは? と噂があるようだが真意は不明だ。

 ヤツが外に出なければ、首は取れない。ならば簡単な話だ。


 外に出ざるを得ない状況を作る。


 幹部を消す。


 タイガー商会は複数の下部組織に枝分かれしており、それぞれにトップが存在する。麻薬、人身売買、傭兵派遣。特に売上の高い三部門のトップを潰せば、ダグラス=タイガー自身が動かざるを得なくなる。


「まずは麻薬……」


 資料を閉じながら、サイファとしての思考が静かに形を成す。


 図書室で読んだ謎の事件簿。そこには、スラム街で近頃、『奇妙な薬』が流行していると記録があった。影の執筆者が残した事件簿は、年代の異なる事件を淡々とまとめているが、不自然なほど現在の状況と噛み合っている。


 偶然か、それとも必然か。


 いずれにせよ、麻薬密売にタイガー商会が関わっている公算は高い。


 奴らの拠点は、おそらくスラム街もしくは大聖都ミレニアの外側。


 どちらにせよ、夜の闇に紛れて動くには都合がいい。


「……最初の切り口は、そこだな」


 サイファの唇がわずかに吊り上がった。

 闇を狩るなら、自分も闇に沈めばいい。

 そのやり方は、身体がよく覚えている。


 スラム街へ降り立ち、いくつか目星をつけた場所を歩いて進む。

 外套を着て姿を隠しているが、背丈が小さく一人で歩いているせいか、数名付いてくる者がいる。


 歩く速度を早め、路地の角を曲がる。


「……どこに行った?」


 キョロキョロと見渡す三人組の黒い影が音も無く背後に立つ。


「ふむ。追い剥ぎか?」


「なっ!? どこから出て来た?」


 サイファの声に驚き振り向く。

 少女の声だが、三人組は異様な存在に警戒を緩めない。


「出すもの出しな。そうすれば痛いようにはしねぇ」


 この手の輩は相手が無防備の女だと思っている。少しは痛い目に遭って学習してもらう必要がありそうだ。


「……」


 外套の裾がわずかに揺れた瞬間、空気が沈んだ。スラム街の喧騒さえ、どこか遠くに感じられる。

 追い剥ぎの三人はその変化に気づけなかったが、一人だけ、獣人の男だけは、本能が背筋を凍らせていた。


「……嫌な気配だ」


 獣人が低く唸ったときには、すでに遅かった。


 サイファの姿が、路地から掻き消える。


 踏み込みの音すらない。影が影へ滑り込むように、一歩で間合いを奪う。


「ッ!? どこ、だ──」


 一人目の男の視界が揺れた瞬間、後頭部に正確すぎる衝撃が落ちた。意識だけを刈り取る角度、力加減。倒れる音さえ邪魔だと言わんばかりに、サイファは男の身体を支え、そのまま静かに地面へ寝かせる。


 二人目が悲鳴を上げるより早く、喉元へナイフが添えられた。しかし刃は肌に触れていない。ただ、殺せる位置にある、という圧だけで全身を縫いとめている。


 銀の瞳が細められる。


「生きて返す価値もない。だが、死ぬ必要もない」


 顎へ的確な肘打ちが入り、男は糸の切れた人形のように崩れた。


 残ったのは獣人一人。

 彼だけは後退しながら構えていた。耳を伏せ、腰を落とし、爪を立てる。理屈ではなく、本能で理解している。この相手は『狩る側』だと。


「……お前、冒険者じゃないな」


「ご明察。だが――遅い」


 次の瞬間、サイファは視界から消えていた。

 だが獣人だけは、雨粒のような足音を一瞬だけ捉える。


「右──!」


 反射で振り向く。しかしその軌道こそ相手に読まれていた。

 サイファはあえて右へ飛ぶ音だけを残し、別方向、獣人の死角へ滑り込んでいた。


 膝裏に軽い衝撃が走り、獣人の体勢が崩れた。

 続けざまに鳩尾へ指先が沈む。


「ぐっ……! な、何だ……この力……!」


「力ではない。最適解を選んだだけだ」


 淡々とした声に、怒りも嘲りもない。ただ事実の確認。

 獣人は膝をつき、それでもサイファを睨み上げた。


「殺すのか……?」


「必要ない。お前はハズレだからな」


 首筋へ軽い手刀が触れ、獣人の意識は静かに闇へ沈んだ。


 倒れた三人を一瞥し、サイファは外套の埃を払う。誰一人致命傷はない。それで十分だった。彼らは二度と軽率に人を狙うことはないだろう。


「……さて。次を探すか」


 黒い影は再び、路地の迷路へと溶けてく。


 次に向かうべきは旧下水道区画だった。

 ガンブレイから受け取った資料によれば、タイガー商会の連中が頻繁に出入りしている記録がある。

 スラム街のさらに奥、廃屋の地下へと続く隠し通路があるようで、スラムの住人でも存在を知る者はほとんどいないらしい。

 だが、外で武装した見張りが立っている時点で、ここが普通の廃屋でないことは明白だった。

 粗末な装備だが、全員が同じ方向を警戒し、同じ癖を持つ動きを見て、訓練されていると者だとわかる。


 闇夜に紛れ、足音を殺して見張りへ近づく。

 半ば諦めたような、しかし鋭い警戒を忘れない声が聞こえた。


「あークソッ、薬が切れた……」


「お前、稼ぎのほとんど薬に使ってんじゃねぇか」


「ルーガ様の新しい薬がよ……あれは本当にキマるんだ。頭はクリアになるし、体の奥から力が溢れるっていうか……あれを一度味わったら戻れねえよ」


 会話の内容から、ここが麻薬部門の根源であることは確定した。

 そして名前が出た以上、間違いない。


 会話の内容から、ここがタイガー商会の麻薬部門の根源であることは確定した。

 そして名前が出た以上、間違いない。


 ルーガ=ヴァーミリオン。

 『赤煙のルーガ』。

 かつて聖庁薬学研究局の研究員で、禁忌薬物を自ら実験しすぎて追放された男。


 この世界の薬物流通を止めるのは簡単ではない。

 だがルーガを仕留めれば、その供給網は致命傷を負い、タイガー商会にとっても大打撃となるはずだ。


 外の見張りを突破するには、まずは気を逸らす必要がある。

 サイファは無言で地面に転がる石を拾い上げ、軽く弾いた。


 カツ、カツッ。


 硬い石が壁に跳ねる音が静寂に落ちる。

 見張りの男が反射的に松明を掲げ、音のした方向へと歩き出した。


 見張りの一人が松明を掲げて奥へ歩き出した瞬間、サイファは動いた。

 風すら揺らさない、影が影へ滑り込むような移動。暗殺者としての癖が、ソルフィーユの細い身体に自然と馴染んでいく。


 残った男は退屈そうに欠伸をしながら槍に体重を預けていた。

 夜勤の緩み。これ以上ない隙。


 サイファは背後へ回り込み、呼吸の間隔を読む。

 吐いた空気が細く漏れた瞬間、首の後ろへ手刀が沈む。


「……ッ」


 声にならない息が漏れ、そのまま男は沈んだ。

 倒れる音を吸収するように腕を添え、ゆっくりと地面に寝かせる。

 脳への衝撃は最小限、目覚めても数時間は動けない。殺すまでもない雑兵だ。


 ——音。


 もう一人の足音が戻ってくる。

 サイファの姿はすでに闇の奥へ消えていた。


「おい、どこ行ったんだよ……ん?」


 戻ってきた男が仲間に近づき、揺さぶる。反応はない。


「は……? おい、寝てる場合じゃ——」


 言葉が終わる前に、背中越しで空気がわずかに歪んだ。

 振り向こうと肩を動かすその瞬間、サイファの指先が頸動脈の神経束を正確に押し込む。


 体が崩れ落ちるのと、意識が途切れるのは同時だった。


「……」


 サイファは男の腕を掴み、ゆっくりと姿勢を整え地面へ横たえる。

 どちらも致命傷はない。だが、暫くは目を覚ますことはないだろう。


 見張りが二人とも静寂に沈んだ廃屋の前に、赤煙の匂いが微かに漂いはじめていた。

 

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