聖女ソルフィーユ
ソルフィーユは目が覚めた。夢の中で知らない男の人が雨の中、激しい戦いの中、命を散らす夢。それはとてもリアリティのある夢で、目が覚めたソルフィーユの胸がまだ緊張でドキドキしていた。
ベッドから窓を覗くと、既に日は昇り、太陽が差し込んでいた。これから祈りを捧げに行かないといけないと思うと憂鬱である。
ソルフィーユの務めは、怪我や病を癒し、王侯貴族の寿命を延ばすこと。その力は神力と呼ばれ、神に選ばれた“器”でしか奇跡を扱えない。
彼女は孤児だった。毎日食べるものは乏しく、凍える夜は薄い布切れに包まって過ごす。
それが日常であり、疑うことすらなかった。
そんな生活が終わったのは数年前。国に仕える聖女が亡くなったその日の夜、神託が降りた。
ソルフィーユは教会の者たちに連れられ、聖レイディア教会へ運ばれ、聖女としての生活を始めることになった。
毎日、暖かいスープと柔らかいパン。ふかふかのベッドと清潔な寝具。
着るものはすべて教会の支給で、いつでも洗濯された新しい服が用意された。
ソルフィーユは女神レイディアに涙が出るほど感謝した。
祈り続けた日々は無駄ではなかったのだと、心から信じた。
しかし、温かい日常は永遠に続くものではなかった。
「聖女様、伯爵様の持病の治療のお時間です。支度を済ませて下へ。馬車はもう参っています。」
ノックもなく部屋の扉が開き、侍女アンナが淡々と告げた。
聖女に選ばれた日から身の回りの世話を任された侍女で、最初の一年はよく笑い、よく話し、ソルフィーユに寄り添ってくれた。
だが気づけば、アンナの態度は日に日に冷え、六年もの間、今のように刺々しい態度が続いている。
一度理由を尋ねたことがあったが、軽くかわされただけだった。
疲れが取れない身体を起こし、着古されシワの目立つ聖衣のローブを身にまとい、鏡を覗く。
目の下のクマは濃く、ほおはこけ、やつれた自分がそこに映っていた。
静かに息を吐き、重い足取りで、教会奥の個室から裏手の馬車へ向かう。警護はない。今では当然の扱いとなっていた。
「御者様もお待ちかねですよ。さ、早くお乗りくださいませ」
アンナは冷たく言い放つが、御者は帽子を胸に抱え、申し訳なさそうに頭を下げる。
町の一般の人々はソルフィーユを見れば礼を尽くすが、教会関係者と貴族の視線は、どこまでも冷ややかだった。
やがて馬車は聖王国のとある伯爵家に到着した。
降り立ち、手入れの行き届いた庭を眺めながら、ソルフィーユは束の間、こんな場所でお茶会ができたら……と想像した。もちろん、それが叶う日は一度も訪れないと知っていながら。
伯爵の私室に入り、挨拶を済ませる。
聖レイディア大聖堂に住み込んでから、徹底的に礼儀作法を叩き込まれてきたソルフィーユにとって、これくらいの所作はもう身体に染み付いていた。
伯爵は満足げに頷き、手招きする。
「最近胸が痛む。ありったけの神力を注いで治してくれ」
「かしこまりました」
ソルフィーユは胸の前で手を組み、深く祈る。
祈りの言葉が静かに紡がれ、女神レイディアへの信仰が光となって室内に満ちていく。
暖かく柔らかな光が伯爵の身体を包み、部屋にいた執事やメイドたちは息をのむように奇跡を見守った。
光が消えると、伯爵の顔色は明らかに良くなっていた。
呼吸の荒さも収まり、立ち上がる余裕さえ見せる。
「……聖女の奇跡だ。胸の痛みが嘘のように消えた。寄付金を多めに納めよう」
「ありがとうございます」
寄付金の額は知らない。
だが聖レイディア教は、献金・寄付金・治療費・土地収益など多くの資金源を持つ。
聖女が行う“奇跡”は最も高額な収益であり、それは必ず上流階級のために使われた。
伯爵家を後にし、馬車へ乗り込む。
次は公爵家の治癒、その後はいくつもの祈祷と儀式が控えている。
ソルフィーユは聖女の務めと思い、疲れ切った体に鞭を打つようにして馬車へ身を預けた。
夜遅く、大聖堂に戻る。
自室のテーブルにはアンナが用意した夕食が置かれていたが、どれも冷え切っていて、味がよく分からなかった。
それでも、孤児時代の生活に比べれば天国だ。
生みの親に抱きしめられたのは、教会が金を渡しに来た“あの日”だけ。
それが最後の家族の記憶だった。
桶に水を張り、タオルで体を拭く。
汚れを落とし寝間着に着替えると、疲労に耐えられずベッドに潜り込んだ。
いつの間にか眠っていたらしい。
ふと目を覚ますと、窓の外から月明かりが差し込み、部屋は青白い光に満たされていた。
だがその光に、不自然な影が映っていた。
人影。
顔は月を背にして見えない。
しかし、右手に握られた金属が鈍く光り、部屋の空気を凍らせる。
短剣だった。
「……だれ……ですか……?」
ソルフィーユの心臓がきゅっと縮む。声は震えた。起き抜けのせいではない。明確な“死の気配”を感じたからだ。
影は答えなかった。
ただ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
床板が微かに鳴る。
ソルフィーユはベッドから後ずさるが、身体が重い。
今日も神力を無理に使いすぎたせいで、脚が震えている。
「ま……待って……私は……」
言葉が喉でつまる。
真っ暗な瞳を向けられた気がした。
影が初めて口を開いた。
「腐敗した貴族共を永遠と生かす聖女の存在は、この世界にとって不要な存在だ。その罪を償うのだ」
男の低い声だった。優しさも怒りもない、ただ任務を遂行する兵の声。
「……え…………?」
ソルフィーユには意味が分からない。
ただ、心臓が凍りつく。
「私……は……まだ……」
言い終わる前に、影は一歩踏み込み、
短剣を逆手に構えた。
「恐れるな。国の為、民の為だ」
その言葉に、ソルフィーユは悟る。
――ああ。
――私は、ここで死ぬんだ。
今まで抱いてきた“感謝の祈り、救われた喜び。すべてが音を立てて崩れていく。
喉が震える。涙が自然とこぼれる。
「……嫌……です……たす……けて……」
絞り出した祈りは、あまりにも弱く、細い声だった。
影が短剣を振りかざした瞬間、ソルフィーユの胸に鈍い痛みが走った。
胸の奥が燃えるように熱く、鋭く。
溢れた血が一気に喉と肺へ逆流し、呼吸を奪う。
世界が白く――そして黒い墨のように塗りつぶされていく。
ソルフィーユの命の光は、風に揺らぐ蝋燭の火のようだった。
今にも消える。
器が空になる。
幾度も奇跡を使い続けた結果、幼い魂はすでにひび割れていた。薄く、弱く、あまりにも脆い。
だがその空っぽになりかけた器に、
“黒い光”が入り込む。
どこから迷い込んだのか。それは異質で、冷たく、底知れない強度を持った別の魂だった。
ソルフィーユの白い魂とは対極にある、暗い焔のような気配。
黒い魂と白い魂が触れ合った瞬間、器の中に黒い炎が噴き上がる。
白い光は呑まれるように消え、
代わりに黒い魂が器の形を取り始める。
器そのものが黒炎の構造へと作り変えられていく。
男はソルフィーユの体温と心音が完全に消えたのを確認し、胸に刺した短剣を抜き取ろうと手を伸ばした。
その刹那。
ソルフィーユの右手が、男の手首を掴んだ。
「なっ!?」
反射的にのけぞる男。
ソルフィーユの眼球がぐるぐると不自然な軌道で動き、胸の傷に向かって血液が逆流し、傷口が、肉が、みるみる再生していく。
男の背筋に冷たいものが走る。
聖女には“奇跡”と呼ばれる特殊能力がある。
歴代の聖女は癒し、再生、不老――どれか一つ、あるいは複数を持った者もいた。
だが、
目の前の現象は、見たことも聞いたこともない。
今日、聖女が弱り切ったタイミングを狙い、
凶刃を確実に心臓へ突き立てた。
逃げも抵抗もできないはずの少女を殺したのだ。
それなのに、彼女は息を吹き返した。
「は、離せ……っ!」
男の悲鳴は虚しいものだった。
掴まれた手首は、細い腕から出るとは思えない握力で圧し潰され、ぼきり、と骨が折れる。
「ぐああああっ!」
男の手から短剣が床へ転がる。
ソルフィーユはそれを無造作に拾い上げた。
そして、ゆっくりと。
重く低い、まるで別人の声で呟く。
「あー……ハンドラーの部下? ……いや、違うな」
その声音に“少女”の面影は一欠片もなかった。
暗殺者の理性と習性だけが、そこにあった。




