毒の盃
パーティーが始まってから、そろそろ二時間が経つだろうか。
履きなれない靴が、さすがに足の裏へ容赦なく負担を積み重ねてくる。立ち姿勢を保つだけで内側の筋肉がじんわり悲鳴を上げていた。
魔力で身体強化を施せば、こんな疲労など一瞬で吹き飛ぶ。しかし、会場には魔力の流れを読むことのできる術師や、魔法感知に長けた連中が何人いるかわからない。金鎖の騎士団にも魔力を見えた奴も居ることから、迂闊に使えば目立つどころでは済まない。
では神力ならどうか?
それも却下だ。
神力聖典によれば、神力は休息によって自然回復しない。ゲームの言葉を借りれば、最大MPそのものが削れていくタイプだ。使えば使うほど最大値が減り、精神が摩耗し、その不足分は魂を削って補填される、とんでもないリスク付きのリソースである。
もっとも、俺の場合は魔力を神力に変換することで、この致命的な欠点をある程度克服できている。だが問題は別にある。
神力は使えば目立つ。
発動時の光、空気の揺らぎ、周囲の魔素の流れは敏感な者なら一瞬で気づく。
ここには貴族と聖庁関係者が山ほどいる。彼らの視線を集めるような真似は論外だ。
つまり、足が疲れた程度で神力を使えば、それだけで『聖女様が神力を発動した』と周囲にバレるデメリットだけが発生する。
……やはり面倒な身体だ。
ソルフィーユの姿で社交場に立つ以上、無防備な弱さを装う必要がある。暗殺者サイファとしての機能性優先の戦闘思考は封じねばならない。
軽くため息をつき、足を組み替えたそのとき入口の方から、場の空気を揺らすような黄色い声が響いた。
視線を向けると、水色の長髪を後ろでまとめ、銀縁の眼鏡をかけた優男が姿を現していた。白を基調とした華美なスーツには幾つもの肩章と金細工のエポレット。軍属の中でも目立つ装飾で、普通の騎士団員ではあり得ない格好だ。
聖王国ディオールには王国正規軍、聖庁直属の聖騎士、金鎖の騎士団、銀翼の騎士団、牙狼の騎士団が存在する。細かく分類すれば、戒律院の戒律隊なども含まれ、その組織数は膨大だ。
「リュミエル、彼はどこの所属ですか?」
「……聖庁のバッジがあります。騎士団にあんな派手な方はいませんので……戒律院所属かと。わ、私も面識はありません。至らず申し訳ありません」
「いえ。情報は十分です。……少し喉が渇きました。場所を移りましょう」
「では、こちらへ」
リュミエルに案内されて飲食スペースへ向かう。その移動に合わせて、先ほどの優男の視線が、こちらを追うように滑ってきた。
「――失礼、続きはまた後ほど」
彼は貴族令嬢たちの輪から、自然な動作で抜け出した。女性たちは名残惜しそうに彼を見送りながら、すぐさまひそひそ声を交わし始める。
「マークイン様って本当に素敵よね……」
「まだ独身なのが不思議ですわ」
「次期戒律官のトップという噂もありますのよ?」
「でもトップはガンブレイ様でしょう?」
「素行が悪すぎて昇進が滞っているとか――」
賑やかな笑みの裏で交わされる噂話。貴族たちの声は、時として事実を突き刺す鋭さを持つ。
俺はその雑音を淡々と聞き流しながら、マークインの動きを視界の端で捉え続けていた。
ようやく、舞台の役者が揃い始めた。
「ソルフィーユ様、何をお飲みになりますか? 果実水もあります」
「そうね……少しキツいお酒をいただけますか」
「お酒ですか? 度数の低い物を――」
「失礼、私も聖女様と同じ物をいただけるかな?」
リュミエルの言葉を滑らかに遮るように、柔らかな男声が横から割り込んできた。振り向くと、さきほど入場してきた優男、水色の長髪を束ね、銀縁眼鏡を掛けたリオル=マークインが、いつの間にか真横に立っていた。
彼は慣れた動きでメイドに注文し、差し出された二つのグラスのうち片方を俺へ向ける。その所作は洗練されており、まるで昔からの知人に接するような距離の近さがあった。
「どうぞ。口当たりは強めですが、香りが良いので私も好きなお酒です」
俺は微笑を浮かべ、聖女としての柔らかい仕草でグラスを受け取る。
「始めまして、聖女様。私の名はリオル=マークイン。戒律院にて戒律補佐官を務めております」
「ご丁寧に。ソルフィーユでございます」
マークインは軽く会釈した。その眼差しは柔らかく、礼節をわきまえた振る舞いのはずなのに……どこか、計算された温度を感じる。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ俺の全身を観察するように上下した。
「先日の事件は、大変でございましたね。戒律院としても調査を続けております。周辺の警備も増員しておりますので、どうかご安心を」
「お気遣いありがとうございます。その点については心配しておりません」
その返事に対し、マークインはにこりと微笑む。しかし、その笑みは表面だけのもので、心からのものには見えなかった。
横に控えるリュミエルは、意識的に半歩下がりつつ、手を軽く腰に添えて警戒の姿勢をとっている。
マークインは一口グラスを傾けながら、俺の瞳を覗き込むようにして言った。
「それは……良かった。聖女様がご無事で何よりです」
声は甘く、空気のように軽い。だが、その奥底には粘りつくような感触があった。まるで、この瞬間すら観察されているような。
マークインが持っているグラスは、俺の持つものとまったく同じ形だった。
透明な液面に、ホールの灯りが揺れている。
「せっかくです。聖女様と同じお酒をいただけるとは光栄ですよ」
わざとらしい微笑み。目だけが笑っていない。
距離の詰め方も不自然だ。まるで
俺の手元の動きを観察するために立っているようだった。
察するに、こいつは探りを入れに来ている。
聖女暗殺未遂以降、王国側は妙に静かだ。
護衛強化の通達も無い。従者のアンナも行方知れずで侍従の入れ替えも無い。神力使用の記録も出ていない。
……疑念を持たない方が不自然ではある。
「乾杯をご一緒に、よろしいでしょうか?」
マークインは自分のグラスを軽く傾け、俺のグラスと触れ合わせる瞬間を狙ってきた。
その一瞬の手の震え、握りの強さ、唇の動き……あらゆる反応を見るつもりなのだろう。
「ええ、もちろん」
マークインが自分のグラスを持ち上げ、俺のグラスへ軽く当てようとする。
人の視線が重なるのは、この乾杯の瞬間だ。
「聖女様と乾杯など、光栄の極みですな」
その場の空気が一瞬だけ引き締まる。
貴族たちは注目し、同時に酒を持ち上げる。
視線が一点に集まるが、これはむしろ好都合だ。
「では……あなたの歩む道に、祝福があらんことを」
グラスを軽く掲げ、神力を最小限だけ指先に灯す。
掌から光がグラスを通り、淡い光が瞬くだけだ。
奇跡の演出というより、儀式的なご挨拶のような規模。
光が天井を照らし、ほんのわずかに眩しい。
人は本能的に光へと視線を向ける。
貴族たちの視線が一斉に俺の手元から天井に引き寄せられる。
その一拍。
俺の指に隠した天然カプセルを割り、静かにマークインのグラスへ沈む。
液体に触れ、すぐに溶け始める。
見た目は酒の泡に紛れ、誰にも気づかれない。
音を立てずにグラスが触れ合う。
マークインの目は俺の喉の動きを、瞬きすら減らして観察している。
俺は淡々と一口飲む。
マークインも続く。
ほんの一滴で十分だ。
舌の裏に走る痺れ、喉の粘膜の鈍化。
心拍が少しだけ高鳴り、視界がゆっくりと波を打つ。
マークインはその変化に、まだ気づいていない。
だが足元がふらついた瞬間、俺はグラスを置き、心配そうに顔を覗き込んだ。
「……大丈夫ですか、マークイン様?」
周囲の視線がこちらへ集まる。
押し殺した声でマークインが呟く。
「……え……?」
呂律が回っていない。指先の震えが始まっている。
あと数分すれば立ち上がれないはずだ。
「顔色が優れません。少し休まれた方がよろしいかと」
俺は肩を支えるふりをして、彼の身体をそっと引き寄せた。
周囲の貴族たちは「飲み過ぎたのだ」と笑い、誰一人として異変に気づかない。
ただの貴族の失態にしか見えない。
――計画通り。




