バラン公爵夫妻とグランデル商会
バラン公爵邸は二階建ての瀟洒な造りで、地下には数部屋の保管庫が広がっている。保管庫には酒樽や食材の予備が並ぶだけで、利用価値のあるものは見当たらなかった。
脱出ルートとしては一階のキッチン、二階の寝室や客間が候補に挙がるが、どれも最悪の事態にのみ使う想定だ。今は聖女ソルフィーユとして、静かに立ち回るのが理想だ。
エントランスを囲むように両脇に設けられた階段は優美な曲線を描き、その中央には広いホールが広がっている。ホールでは楽団が弦を奏で、美しい旋律が空気を満たしていた。テーブルには一口サイズの料理が並び、客人たちは色とりどりの衣装を身にまとって談笑に花を咲かせている。
ターゲットであるリオル=マークイン戒律補佐官は招待客リストに名前があったものの、まだ姿は見えない。そもそも来ていない可能性はある。だが、仮に不参加でも貴族社会に顔を出すことは聖女の職務の一環だ。無駄足ということはない。
思えば、ソルフィーユは聖女に任じられた最初の一年は頻繁に社交界へ出ていたようだ。しかし、陰謀の渦巻くこの場で心身をすり減らし、いつしか姿を見せなくなった──記憶の断片はそう告げている。
その頃から彼女は神力を過剰に使って貴族たちの治療を続け、無理難題を受け入れていたようだ。断れなかったのだろう。彼女の精神はその段階で限界を迎えた。
ホールへ足を踏み入れると、ひときわ大きな人集りが目に入った。その中心にいた人物と目が合った瞬間、彼は大袈裟なほどの声で名を呼んだ。
「ようこそお越しくださいました、聖女ソルフィーユ様!」
歓声と共に、人垣をかき分けて二人の男女がこちらへ向かってくる。
「初めまして。私がローランド=バラン公爵で、こちらが妻のナブラリア=バランです」
ローランド公爵は四十代半ばほど、紺色の髪を丁寧に撫でつけ、無駄のない体つきと静かに笑う青灰色の瞳を持つ男だった。声は柔らかいが、その奥に計算高さを隠しきれていない。
隣に立つナブラリア夫人は淡い金髪を縦巻きに整え、翡翠色のドレスを優雅に揺らす気品に満ちた女性だ。肌は白磁のように滑らかで、瞳は湖面のように澄んでいる。だが、笑みの奥には鋭い観察の光が潜んでいた。
「ご招待、誠にありがとうございます。ソルフィーユでございます」
「こんばんは、聖女様。ナブラリア=バランです。本日は私の誕生パーティーに来てくださり、本当に嬉しく思います。わ、私……嫌われているのかと、ずっと……」
「何を言っているんだ。手紙の返事が来たとき、お前、ベッドから跳ね上がるほど喜んでいたではないか」
「まっ、あなた! それは内緒だと言ったでしょう!」
ホールに笑いが広がる。
この軽妙なやり取りも、裏側では情報戦と牽制が飛び交っている。
貴族の笑顔は仮面であり、握手は探り合い。ソルフィーユの瞳の奥では、サイファとしての冷たい計算が静かに動き続けている。
その後、他愛のない話をやり取りし、ローランド=バラン公爵の挨拶がホールで行われ、妻のナブラリア夫人からの挨拶をもってパーティーが始まった。
演奏家たちが演奏する曲がホール内に響くと会場は一段と盛り上がる。
私は壁際に寄り、周りを観察するとあることに気がつく。
「リュミエル、貴族の方が多いようですが、聖庁の関係者はいないのですか」
「そうですね。一見分かり難いと思いますが、女性ですと、左の胸元に聖庁のバッジがついています。男性ですと襟元に聖庁のバッジがついておりますので、それで見分けます」
観察すると確かにリュミエルが言うように聖庁のバッジが見えた。
パーティーだし、儀式用の服を着ているのもおかしな話だが、ソルフィーユが着ているのは礼服とはいえ、聖女として聖職者寄りの礼服を着ている。
ドレスではないが、それでも人の視線を集めるほどの綺羅びやかさはある。
聖女と顔繋ぎしたいと思っている貴族たちが列を作り、ソルフィーユと挨拶を交わす。
内容としては領地の特産物やら、工芸物、魔物加工品が主だが、中には大金を払うから家族の病を治して欲しいという願いもあった。
病に関しては治すのもやぶさかでないが、現在治療行為は休止中であり、もし、その貴族の領地に行く機会があれば伺うとの話で留めている。
挨拶が一段落し、周囲の視線が少しずつ散っていく。その隙間を縫うように、遠慮がちにこちらへ向かってくる気配があった。
最初は貴族の側仕えかと勘違いした。ただ両手を胸の前でぎゅっと握りしめて歩いてくる姿は、場違いなほど緊張しているように見えたからだ。
近づいてきたのは二十代半ばほどの若い商人だった。痩せて背は高く、髪は栗色で少し跳ねている。礼服は古いが丁寧に直された跡があり、靴には磨き込んだ跡が光っていた。
庶民が背伸びをして社交界へ来た、という雰囲気が全身から漂っている。
「し、失礼……し、失礼いたします、聖女様……!」
声が裏返った。本人が一番驚いたらしく、顔が真っ赤になる。
リュミエルが半歩前へ出ようとしたが、俺は軽く手で制した。
「どうしましたか?」
「わ、わたくし、ヨアン=グランデルと申します! ミレニア南東部外壁近くの……あの、小さな雑貨店を家族で営んでおりまして……」
噛みながらも必死に言葉を繋ぐ。
社交界に慣れていないことは明らかだが、悪意の気配はない。むしろ、勇気を振り絞っているように見える。
「グランデル……どこかで聞いた覚えがありますね」
「は、はいっ! ナブラリア夫人がお店を贔屓にしてくださっておりまして……今日は、その、ご招待を……」
言葉が詰まり、視線が泳ぐ。
しかし、ふっと表情が決意に変わった。袖口をぎゅっと握り締め、震える手を差し出してくる。
手のひらには、小さな包みが乗っていた。
「こ、これ……! 半年前、店の前で倒れていた子どもを……聖女様が治してくださったときのお礼です! 御礼を言えず……ずっと、その……気にしておりました……!」
半年前……ソルフィーユの記憶には確かに、倒れた子供を治療し、側にグランデルが居たような気がする。残念ながら記憶はおぼろげだ。
グランデルから包みを受け取る。
包みを開けると色とりどりの飴が五つ入っていた。
サイファとしては、こういう善意の気配が一番扱いにくい。だが、ソルフィーユとして応えるのは難しくない。
「これは飴ですか? 美味しそうですね」
「この飴は当店の人気商品でして、お口に合えばなと……」
「ありがとうございます。お子さんはお元気ですか? お店の方には、また今度伺わせていただきますね」
「ひゃっ……ひゃい!」
噛んだ。
しかし、喜びに顔をぐしゃっと歪め、何度も何度も頭を下げている。
リュミエルは微笑ましそうに目を細め、まるで弟を見るような視線を向けていた。
「よ、よかった……お渡しできて……。し、失礼いたしますっ!」
ヨアンは勢いよく下がろうとしたが、床のカーペットに足を引っかけて危うく転びかけ、慌てて姿勢を立て直した。
その仕草に、周囲の貴族たちが少し笑い、気まずさが空気を和らげた。
「リュミエル、彼のお店について知ってますか?」
「はい。グランデル商会の二代目ですね。私も子供の頃はお父様に強請って綺麗な色の妖精飴を買ってもらいました。お菓子も安価で有名ですが、メインは雑貨屋なので様々な物が売られていますよ。薬瓶や針とか修繕用の道具まで。痒い所に手が届くような商人っていったところでしょうか」
善良で、不器用で、誠実な青年。だが、雑貨商である彼は、役立つ資材にも触れているはずだ。薬瓶、革袋、金具、小物、保存具、蝋封、器具の修繕――すべてが俺にとって利用価値のある物だ。
使えるな。
ソルフィーユの微笑みの裏で、サイファとしての計算は静かに動き始めていた。




