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バラン公爵邸へ

 ランニングを終えた後、私室に戻ると半泣きでぶすくれているリュミエルの姿があった。


「なんで置いていくんですか!」


「ここ連日、早朝ランニングすると何度も伝えておりますが、時間になっても来ないのは誰ですか」


「それでも!」


「私には私のルーティンがあります。リュミエルには強制しませんが、無理なら無理と言ってくれたほうが気が楽なのですが……」


「明日は参加します!」


 とは言っているものの、参加できるかはなんとも言えない。

 朝が弱いリュミエルが明け方五時に起きて、ランニングできるかというと難しい。有事の際は兎も角、彼女は朝の起きてからエンジンがかかるまで三十分はかかるので、私より早く起きて行動しないといけないが、彼女の場合は私の護衛任務の他に報告書などの事務仕事もあるそうだ。


 聖騎士たちとの情報交換や所属してきる騎士団の上司にも報告をすることがあると考えると寝る時間も限られているのだろう。


「今日の予定を」


「はい。今日の予定は午後六時からバラン公爵のお屋敷にて、ナブラリア=バラン公爵夫人の誕生パーティーに参加する予定になっております」


 先日リュミエルから貰った招待客リストに視線を落とす。

 何人か名前だけは知っている貴族の他にお抱えの商人、そして聖庁からは戒律院のリオル=マークイン戒律官補佐の名前が載っている。


 顔を確認するのは現場となるが、これについては予め情報収集をしているので問題ないだろう。


「二時間前にはヘアスタイルと着付け担当の者が来ますので、それまでには私室で待機してください。


「わかりました。……あ、そうだ。リュミエルにこれを渡そうと思っておりました」


 引き出しからゴルフボールくらいの大きさの樹の実を渡した。


「これはなんでしょうか?」


「傘の部分を取ってみてください」


「……これは」


 どんぐりの頭に被っているような部分を取ると、樹の実の中に、黄味がかった塊が出てくる。


「温室で作った天然の保湿クリームです。リュミエルの手が荒れていたので、これを患部に塗ると、乾燥を防いでささくれ防止、傷なんかも治りやすくなります」


「ええ!? これ貰ってもよろしいので?」


「はい。いつも苦労を掛けているので感謝の印です」


「おおぉ……あ、ありがとうございます!」


 自分の手でテストして、痒みとか出ないと確認してからリュミエルにプレゼントした。

 もちろん毒薬を作る工程の副産物なのは内緒であるが、いつかは知ることになるだろう。


 そんなことをしているうちに刻限となり、着付けやヘアセットを整え、ソルフィーユとリュミエルは馬車へと乗り込み、ミレニア大聖堂を後にした。


「なんだか……少し緊張してきました」


 リュミエルは落ち着かない様子で、指先をそわそわと揺らしている。普段は鋼のように凛々しい聖騎士だが、こういう一面を見ると年相応の若い娘だと実感する。


「リュミエルはパーティーや社交の場には出たことがないのですか?」


「子供の頃はお父様に連れられて参加しておりました。貴族の集まりや、聖庁の偉い方々との行事など……。ですが、騎士になってからは初めてです」


 なるほど。幼少期の彼女は、今よりもっと柔らかな雰囲気だったのだろう。今も可愛いが、任務中は表情に緊張感が宿り、どうしてもキリッとした印象が強い。


「折角のパーティーなんです。正装もしていますし、楽しむくらいでいいのですよ」


「はい、努力します!」


「あ、お酒は駄目ですからね」


「心得ております!」


 胸を張るリュミエル。その姿に思わず笑ってしまう。

 今夜は暗殺者として動く場面もあるが、こうして隣にいる彼女の無邪気さを見ると、せめて表向きだけでも穏やかに過ごさせてやりたくなる。


 夕暮れが大聖都ミレニアの高い屋根を朱に染める頃、馬車はゆるやかに速度を落とし、煌びやかなバラン公爵邸の前へと滑り込んだ。


 まず目に入るのは、屋敷の威容だ。

 白亜の壁面は夕陽を反射して金色に光り、広大な庭園には色とりどりの花が咲き乱れ、噴水の水音が涼しげに響いている。貴族たちが富を見せつけるために建てたような、典型的な豪奢な邸宅だ。

 先日、下見の為に忍び込んだ時とは少し見え方が違うので味わい深い。


 玄関前には、すでに多くの馬車が並んでいた。どれも飾り金具が眩しく、客人たちの身なりもまた華やかだ。男は深紅や紫の礼服に身を包み、女は宝石を散りばめたドレスで社交の微笑みを浮かべている。


「す、すごい……!」


 リュミエルが思わず声を漏らした。その頬は緊張と興奮でほんのり赤い。


「肩の力を抜いて。あなたは聖女の護衛として胸を張っていればいいのです」


「は、はい……!」


 馬車が完全に止まると、従者がドアを開き、恭しく頭を下げる。


「聖女ソルフィーユ様、ようこそお越しくださいました」


 リュミエルが先に降り、周囲を素早く確認する。その仕草は完全に騎士のそれで、先ほどの少女のような姿とは別人のようだった。


 そして、俺、聖女ソルフィーユは、ゆっくりと馬車を降りた。

 瞬間、周囲の視線が一気に集中する。ガヤついていた周囲の空気が一拍だけ静まり、ざわめきが広がる。


「聖女様だわ……」「本当に虹色に見える……」「噂よりずっと綺麗だ」


 そんな声が耳に届く。


 ソルフィーユとしての仮面が自然と整う。

 穏やかな微笑み、柔らかな所作、視線は少しだけ伏せ気味に。しかし一方で、サイファとしての意識が水面下で立ち上がる。


 まず周囲の警備状況を確認する。騎士が三名、配置は一定だが死角が多い。バラン公爵の私兵たちも各所に配置されているようだ。また屋敷前の階段下と噴水の影は利用価値がありそうだ。

 次に、客人たちの視線の流れ。好奇心半分、下心半分、軽蔑三割。これらは群衆の中で動く際の流れを把握するための材料だ。


 今日はあくまで聖女ソルフィーユとして振る舞う。

 しかし、舞台裏では暗殺者サイファとしての冷静な計算が同時に走る。

 この二つの人格を使い分けるのも、今では随分と慣れてしまった。


「ソルフィーユ様! お越しいただき光栄です!」


 迎えに走ってきたのは、バラン公爵家の執事らしい痩身の男だった。年齢は五十前後といったところだが、身のこなしは柔らかい。


「本日は公爵夫人の晴れの日。皆、聖女様のご来訪に大変喜んでおります。どうかごゆるりとお過ごしくださいませ」


「ありがとうございます。夫人とは後ほどご挨拶を」


 丁寧に頭を下げつつ、視線はさりげなく屋敷内部へ滑り込ませる。

 案内されたバラン公爵の屋敷に足を踏み入れると、視界に広がる玄関ホール。天井には巨大なシャンデリア。階段は二手に分かれ、上への導線は複数。脱出ルートの候補として、いくつか確認済みだ。


 そして、今夜の主役の一人リオル=マークイン戒律補佐官は、どこにいるだろうか。まだ姿を見せていない可能性もある。


 だが構わない。舞台は整いつつある。

 あとは、こちらが何処で仕掛けるかだけだ。


「さあ、行きましょう。リュミエル」


「は、はい!」


 聖女の微笑みを浮かべながら屋敷へ足を踏み入れる。

 だが心の奥では、暗殺者の視線が静かに光を帯びていた。

 

 

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