神の名を持つ教皇
ミレニア大聖堂の北方、その大理石の丘の上に、聖王国最大の神殿ヴェッセル大聖庁がそびえている。白金の尖塔が林立し、陽光を反射して昼でも星空のように瞬くその建築は、祈りの殿堂であると同時に、聖レイディア教と聖王国の政が交差する中枢でもあった。
この巨大複合施設では、国政を司る貴族や政務官、戒律を監督する司祭たちが日々会議を重ね、時には他国の使者との密談も行われる。香油と羊皮紙の匂いが漂う回廊には、権力のざわめきと祈りの声が同時に響く。
そんな場所に、純白の馬車がゆっくりと乗り入れてくる。光沢のある御者台、磨かれた車輪。観光客も関係者も、誰が乗っているのかと視線を向けるのは当然だった。
馬車が静かに止まる。最初に降り立ったのは、銀髪を後ろで束ねた聖騎士リュミエルだ。凛とした姿は油断がなく、周囲を一望して安全を確かめる。その後、馬車の扉に手を添え、恭しく差し出した。
その手を取って姿を見せたのは、太陽光を浴びるたび髪色が虹のように揺らぐ人物、聖女ソルフィーユである。その存在は周囲の空気を変えるほど強烈で、視線が雪崩のように集まってくる。
ソルフィーユ自身はその注目にどうも慣れない。暗殺者サイファとして生きていた頃なら、目立つ行動は死に直結する。姿を潜め、気配を殺し、任務を遂行してきた。それが今では立っているだけで注目の的だ。容姿が目立つせいで、ひとつ動くにも不自由を感じる。
しかも今日は教皇に謁見するため、聖女としての正装をまとっている。宝石と刺繍が光を弾き、普段の三倍は派手だ。逃げも隠れもできない格好に、内心でため息が漏れる。
一方、護衛のリュミエルは周囲の視線をまるで自分への賛辞のように受け取り、胸を張っている。聖女を守る誇りと気品を体現した歩みで、二人はヴェッセル大聖庁の表門をくぐった。
「ようこそヴェッセル大聖庁へ。教皇様は現在会議中です。終了次第、昼食会をご用意しております。お部屋の準備が整っておりますので、しばらくお待ちいただけますでしょうか」
貴賓室へ案内されると、磨き上げられた銀器と上品な茶菓子がすでに用意されていた。静寂が染み込んだ空間で、ソルフィーユとリュミエルは二人きりになった。
「招待しておいて、ソルフィーユ様を待たせるなんて……私は失礼だと思います」
「相手は教皇様ですよ。言葉には気をつけて」
「し、失礼しました」
「でも、リュミエルの言うことは半分正しくて、半分は違うのです」
「と、いうと?」
「これも政治の駆け引きの一つ。教皇様から昼食のお誘いを受ける。わざと待たされる。ここで文句を言えば、我儘な聖女というレッテルを貼られます。断れば断ったで、また別の理由で評判が落ちます」
「そ、そうなのですね……」
政治という世界は、弱肉強食の論理でしか動かない。どこの国でも、どの世界でも、権力の周囲は必ず混沌と駆け引きが渦を巻く。ここでの正解はただひとつ。黙っていくらでも待つこと。
だが、警戒だけは常に必要だ。この場で聖女暗殺を企てるなら、窓の無い密室に追い込んで多数で押し切るか、毒殺が手っ取り早い。
ソルフィーユ、いや、サイファとしての感覚が告げていた。室外の兵士が二名、入口を固めている。さらに天井裏に一名、壁の装飾板の裏に一名潜んでいる。迂闊な発言をさせないようリュミエルを制したのも、こうした状況を見通していたからだ。
紅茶を一口含み、焼き菓子を砕くように噛む。仮に毒が入っていても問題はない。神力聖典には毒の無効化の方法がしっかり明記されていた。
やり方は単純で、全身を神力で満たすか、口にするものを神力で包み込むだけで毒を無害化できる。アルコールですら浄化できるらしい。
紅茶も茶菓子も、普通においしい。今回の試しは白だ。
しばらくして貴賓室の扉がノックされ、昼食会の準備が整ったとの知らせが届いた。二人は案内役の後ろに続き、厚い大扉の前へと進む。
「聖女ソルフィーユ様がお越しになられました」
案内人の声が高く響いた。
「どうぞ」
低く威厳のある声が返り、大扉がゆっくりと左右に開く。光と重厚な空気が溢れ出し、その中の光景が徐々に姿を現していく。
ソルフィーユの知識に教皇の名が浮かぶ。
アルヴァス=イル=レイディア教皇が待機しており、白金の装飾を背にして立ち上がると、わざわざこちらへ歩み寄ってきた。その動作は優雅で、同時に計算された威圧があった。
「聖女ソルフィーユ、お久しぶりですね。最近、賊に襲われたとかで心配しておりました」
「教皇様、お久しぶりです。奇跡的に怪我をせず撃退できました」
ソルフィーユは祈りの所作を丁寧に行い、当たり障りのない返答で距離を保つ。
「食事をしながら聞くとしましょう。こちらへどうぞ」
純白のテーブルクロスが敷かれた席へ案内され、リュミエルが自然な所作で椅子を引く。教皇の背後にも二名の騎士が控えており、明らかに聖騎士だ。全員、動きが淀みなく訓練されている。
食事はフランス式のコースを模したものに似ており、一皿ずつ静かに運ばれてくる。どれも一口で収まる美しい盛り付けで、最後に香り高いコーヒーが置かれた。
「以前見たときより顔色が良いようですね。神力は大丈夫ですか?」
「はい。今は使用を限定的にしておりますので」
ソルフィーユは淡々と返す。教皇の探りを受け流すための、無難な距離感。
「賊を退けた状況はどうでしたか? どんな奇跡を使ったのですか?」
「無我夢中でして……詳しくは説明できません。神に助けを求めたら、賊が突然窓から飛び出してしまって」
「それはそれは、大変な目に遭いましたね」
教皇は小さく笑い、表情を緩めた。しかし、その目の奥だけは微動だにしない。
「そう言えば、ガンブレイ戒律官と婚姻の話が上がっているそうですが、本当ですか?」
リュミエルが一瞬だけ呼吸を止めた気配がした。直撃する質問に、ソルフィーユは表情を変えず、慎重に言葉を選ぶ。
「去年、ガンブレイ戒律官様からプロポーズを受けました。当時、私は十五の未成年でしたし、その……詩の意味が理解できず、今の今までお返事しておりません」
「あっはっはっは。なるほど。ガンブレイ戒律官もなかなか変わった男ですからね」
ソルフィーユは心の中で、変わったどころか厄介だと毒づく。
「過去に聖女と婚姻を結び、子を宿した聖女がいます」
「そのお子様は?」
「今は帝国にいます」
帝国。その単語を聞いた瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。聖王国の遥か東、広大な領土と軍事力を誇る巨大国家。外交も宗教観も大きく異なる相手だ。
教皇は続けた。
「帝国は今も、その血を『聖紋の器』として扱っているようでして……最近、帝国の動きも怪しく、聖王国側の国境付近は少し緊張した状態が続いておりますね」
その続きは、正直聞かない方がよかった内容だった。帝国と聖女の血の扱いについての断片的な情報は、余計な想像を掻き立てる。サイファは心中で軽く舌打ちし、話題を強引に戻す。
「他国への刺激にもなりかねませんし、ガンブレイ戒律官様との婚姻については、今は考えておりません」
「私からガンブレイ戒律官に伝えましょうか?」
「お気持ちだけで十分です。近いうちに、私から正式にお返事しますので」
教皇に恩を売らせるわけにはいかない。ここで借りを作れば、いずれ鎖のように首に絡まる。サイファは柔らかな笑みの裏で、計算しつつ線を引いた。
教皇はしばしソルフィーユを眺め、ほんのわずかに目を細める。好奇心とも、探る視線ともつかない色を宿して。
「……数ヶ月見ないうちに変わりましたね。まるで別人のようだ」
その言葉に、ソルフィーユの背筋が一瞬だけ冷えた。教皇の声は穏やかだが、裏に観察者としての鋭さが潜む。まるで、魂の奥を覗き込もうとするような視線だった。




