父と子
グラン=テルムに到着して初めての夜。
ソルフィーユ一行は湖畔の宿に身を落ち着けていた。
満天の星空の下ソルフィーユは一人、バルコニーに立ち、湖面を眺めている。
闇の中に小さな灯りが点々と浮かぶ。漁の小舟だろうか。揺れる火は星の欠片のようで、静かな水面に淡く映っていた。昼間の賑わいとは対照的な、穏やかな時間が流れている。
「聖女様〜、リュミエル見なかった?」
気の抜けた声とともに、セレナがふらりと姿を現す。
足取りと赤らんだ目元で、酒が入っているのは明らかだった。
「リュミエルは領主の御屋敷に向かいましたよ」
夕刻、町の喧騒の中でふと落ちた影。
その変化に気づき、「ご一緒しましょうか」と声をかけたが、リュミエルは柔らかく、しかしきっぱりと断った。
無理に同行することもできた。
だが、あの表情は――決意の顔だった。
人には土足で入ってはいけない領域が存在する。
だから今は見守ることにした。
湖面の灯りが揺れる。
穏やかな夜の下で、それぞれがそれぞれの場所に戻ろうとしている。
▽
「旦那様、リュミエルお嬢様がお戻りになられました」
「……部屋に来るよう伝えなさい」
「かしこまりました」
金の髪を後ろへ撫でつけ、整えられた口髭を指でなぞる。重厚な机の前に座る男は、低く命じた。
メイド服の女性は一礼し、音もなく部屋を辞す。
やがて、扉を叩く控えめな音が響いた。
「入りなさい」
扉が開き、淡い色の部屋着に身を包んだリュミエルが姿を現す。
昼間の無邪気な笑顔は影を潜め、そこに立つのは領主の娘だった。
「お父様、ただいま帰りました」
静かに頭を下げると、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
リュミエルを見つめる男、エルディアス=ヴァン=フォルキア辺境伯。
親子でありながら、そこには領地を背負う者同士の距離があった。
「もう少し早く連絡を寄こせば、夕食を共にする時間もあっただろう」
「……聖女様の護衛任務がございますので」
「報告は受けている。聖騎士の資格を剥奪されたそうだな」
「大聖都へ戻る頃には、復職の予定です」
短い応酬の後、沈黙が落ちる。
用件がないのなら下がろう。
そう口を開きかけた瞬間、エルディアスはゆっくりと立ち上がり、執務机を離れてソファへと移った。
「どうした。そこに座れ」
予想外の言葉だった。
リュミエルは一瞬ためらい、それでも命に従い、向かいのソファへ腰を下ろす。
エルディアスはグラスに酒を注ぐ。琥珀色が揺れ、静かに光を返す。
そのまま、娘へ視線を向けた。
「……大聖都での暮らしはどうだ」
「……普通です」
「聖騎士であるお前が、普通なはずがあるまい。話を聞かせてくれ」
聖騎士となって以来、一度も顔を合わせていない。
手紙すら交わさなかった。
父は、自分に興味がないのだと思っていた。
だが今、その目は違う。
「聖女ソルフィーユ様は、素晴らしい御方です。私が生涯を賭してお護りするに値する方だと、心から思っております」
「生涯を賭けて、か」
エルディアスは低く繰り返す。
「結婚し、爵位を継ぐつもりはないのか」
その問いに、リュミエルの瞳が見開かれる。
「兄上が領主を継がれるお話では?」
「ノクティエルは才も力もある。人の上に立つ器も持っていよう」
「ならば――」
「だが、野心が強過ぎる」
言葉が重く落ちる。
「フォルキア領は、エルフの国――エルヴァシア森王国と隣接している。あやつは森の恵みを得るため、さらに奥へと進出する構想を抱いている」
「……っ」
リュミエルの背筋が凍る。
「それではエルフたちが黙っていません。今は良好な関係を築けているのです。無用に刺激すれば、争いになります」
静かな夜の室内で、緊張が確かに形を持った。
リュミエルは、わずかに身を乗り出した。
「兄上は、今どちらに?」
「私兵を連れて西の森を探索し、今日の朝には返ってきた」
エルディアスはソファーに深く座り直すと、更に続ける。
「最近、魔物どもの様子がおかしい。作物が荒らされ、領民が襲われている。失踪者も増えている」
淡々とした報告。だが、その内容は非常に重く、リュミエルも心当たりがある内容だ。
「……北の森で、フォレストエイプが群れを率いて私たちを襲撃しました」
リュミエルの言葉に、エルディアスはグラスを手に取る。
一口含み、静かにテーブルへ戻す。
そのわずかな間に、思考が巡ったのがわかる。
「フォレストエイプの報告は上がっている。だが、それだけではない。ゴブリン、トロール、オーク、オーガ……複数種の群れが、このフォルキア領周辺の森で確認されている」
「そ、そんなに……? それは、いつからですか?」
「目撃情報と被害の記録を遡れば、およそ三、四ヶ月前だ」
三、四ヶ月前。
ソルフィーユが監獄塔へ送られた時期と重なる。
あの塔で何があったのか。
問うたことはある。だが、ソルフィーユは一言も語らなかった。
偶然か。
それとも――。
「バートリー領でも、魔物の群れに襲われました。中には異型の個体も含まれていました。確証は少ないですが……カレドニア帝国の関係者と思しき人物も確認しています」
室内の空気が、さらに冷えた。
魔物の増加。
異型の出現。
帝国の影。
点が、ゆっくりと線を描こうとしている。
だが、リュミエルは首の内で否定する。
ソルフィーユが監獄塔へ送られたことと、今回の魔物災害は無関係だ。
塔で何があったのかは知らない。だが、外で獣王傭兵団と対峙していた時、異変の兆しはなかった。
偶然が重なっているだけだ――そう考えたい。
ただ一つ。
変わったことがあるとすれば。
父であるエルディアスにも打ち明けられない、あの秘密だけだ。
「……先日、飛竜郵便で報せが届いた。バートリー男爵――当時は準男爵だったか。帝国との繋がりを含め、数々の罪が露見し、自害したそうだな」
「はい」
短い肯定。
「あえて忠告しておく。聖王国内には帝国の間者や売国の徒が紛れている。今回の件にお前たちがどこまで関わっているかは知らん。だが、軽々しく深みに踏み込むな」
「……心得ています」
「分かっているならよい」
エルディアスは椅子に背を預けた。
「今日は遅い。泊まっていくのだろう」
「はい。今夜は屋敷に。明日は、聖女ソルフィーユ様をご紹介したく存じます。よろしいでしょうか」
「……構わん。それと――」
そこで、わずかに言葉を区切る。
「家族だけの時は敬語は要らん。私とお前、そしてノクティエルしかおらぬのだから」
静かな声音だった。
領主としての命令ではない。
父としての、不器用な歩み寄り。
リュミエルの胸の奥で、何かが小さく揺れた。




