フォルキア領主が住む町、グラン=テルム
生き残っていたフォレストエイプを討ち終えると、森はひとまずの静寂を取り戻した。
血の匂いが土に沈み、潰れた草の青臭さが鼻を刺す。
その奥から、遠く魔物の鳴き声が重なり合う。森はまだ、こちらを歓迎してはいない様子だ。
「魔物の数が多い。いちいち相手にしていたら消耗するぞ」
周囲を警戒しながらライナーが告げる。
その言葉を聞き、ソルフィーユは無言で幌馬車へと向かった。
荷の一角に収めてあった箱を開け、小ぶりの壺を取り出す。
「聖女様、気が利くじゃない」
セレナが受け取り、慣れた手つきで中の塊に火を移す。
やがて、白く細い煙が立ち上った。
「これで、騙し騙し進むしかないわね」
魔除けの香。
強い魔力を持つ存在には通じないが、低位の魔物なら本能的に距離を取る。
旅の途中で幾度も彼らを救ってきた、小さな切り札だった。
煙は静かに森へと溶けていく。
それでも、奥から響く鳴き声は消えない。森は確かに息づいている。
破壊された道を、バロックが土の精霊に命じて均していく。
盛り上がった地面が静かに沈み、裂けた土が縫い合わされる。
壊した本人が直すのは仕方がない。
「老体に堪えるわい」
腰を叩き、背をぐっと伸ばす。
骨が鳴る音が聞こえそうだ。
「樽爺の精霊魔法はいちいち派手過ぎるのよ。私みたいに、もっとスマートに効率よくやるべきよ」
セレナが肩をすくめる。
「ちまちまやっておっては、あの手の魔物には通じん。感が鋭い。纏めて潰したほうが早い」
バロックは鼻を鳴らす。
森という地の利を活かし、縦横無尽に跳び回るフォレストエイプ。
個別に追えば確実に翻弄される。広範囲を一度に制圧するバロックの精霊魔法が有効なのは事実だった。
二人の応酬を聞きながら、ソルフィーユは静かに思考を巡らせる。
もし、多数のフォレストエイプを同時に相手取ることになったら自分は対応できるのか。
倒すことは可能。だが、選択を誤れば守るべき者を守れない。
森の奥から再び鳴き声が響いた。
試されているのは腕ではなく判断なのだと、ソルフィーユは理解していた。
数日、森の中をゆっくりと馬車が揺れ続けた。
悪路ではあるが、馬は疲れた様子を見せない。太く発達した脚が地面を確かに踏みしめ、重い車体を静かに引いていく。その体格は並の軍馬を凌いでいた。
それ以上に不思議なのは、魔物が姿を現しても一切動じないことだ。耳を伏せることも、いななくこともない。ただ淡々と前を向いている。
理由をリュミエルに尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「この馬はバーバリアンホースと呼ばれる魔物です。わりと凶暴な種ですよ」
「え、これも魔物なのですか?」
「はい。とても賢く、人の言葉も理解します。今も、私たちの会話を聞いていますよ」
目の前の二頭が、まるで肯定するかのように鼻を鳴らした。
日頃から世話をし、何気なく話しかけていた。
それが理解されていたのだと知り、ソルフィーユの頬にわずかな熱が集まる。自分の言葉が、すべて聞かれていたのかと思うと落ち着かない。
「何度か他の魔物に襲われましたが、この子たちは本当に大人しいですね」
「自分より格下は相手にしないそうです。本当に危険な相手なら戦うらしいですが……私は見たことがありません」
普段は温厚。ただし、侮られれば牙を剥く。
その性質を聞き、ソルフィーユは小さく息をついた。
名から受ける印象は荒々しいが、振る舞いは理性的だ。魔物であっても、接し方次第で信頼は築ける。
馬車は静かに森を進む。
二頭の背中は頼もしく、揺れの向こうに確かな安定があった。
やがて森が途切れ、裂け目のように視界が開けた。
「……ここが、リュミエルの故郷なのですね」
御者席から見渡す光景は、思わず息を呑むほど広大だった。
冬のはずだというのに、大地にはなお緑が息づいている。畑が幾重にも広がり、ところどころに実りの色が点在していた。
「フォルキア領は温暖な土地です。この時期でも作物は育ちます」
穏やかな声でリュミエルが答える。
畑では大勢の人々が動いていた。冬支度のためだろう、忙しなくも活気のある収穫の風景が続いている。荷車が行き交い、笑い声が風に乗る。
森の緊張とは対照的な、長閑な光景だった。
大地は豊かで、人の営みは確かに根を張っている。
その温もりが、ゆるやかに胸へと染み込んでいった。
馬車を進めていると、畑の端から一人の男が大きく手を振った。
「リュミエル様だ! おーい! リュミエル様ー!」
「あ、マイコー。久しぶりー!」
弾むような声で返す。
まるで貴族令嬢ではなく、町娘が友人に呼びかけるような調子だ。
その無防備な笑顔を見て、ソルフィーユの口元が自然と緩む。
「お知り合いですか?」
「私の屋敷の近くに住んでいる、幼馴染のマイコーです」
馬車がゆっくりと停まり、リュミエルは御者席から軽やかに飛び降りた。
外套の裾を払う仕草も、どこか気安い。
「帰って来るなら、手紙くらい出して知らせてくれればよかったじゃないか」
「あ、うん。ごめん。ちょっと色々あって……」
言葉を濁すリュミエル。
その横で、ソルフィーユはそっと彼女の袖を摘まんだ。
わずかな力。だが、意図は明確だった。
はっとしたようにリュミエルが振り向き、慌ててソルフィーユの隣へと並ぶ。
ここは故郷。
だが同時に、立場を忘れてよい場所ではない。
再会の温もりと、背負うものの重さ。
その両方が、静かに交差していた。
「今、私はこの方にお仕えしているんです」
えっへん、と胸を張るリュミエル。
「はじめまして。大聖都ミレニアより参りました、ソルフィーユと申します」
裾をわずかに摘み、優雅に一礼する。
陽光を受けた銀の髪は透き通り、角度によって淡く七色を帯びる。
銀の瞳には、まるで紋章のような不思議な模様が浮かんでいた。
「う、美しい……」
顔がみるみる赤く染まり、視線が定まらない。
「あわ、あわわわ……ま、マイコーと申します! ぼ、僕とお付き合いをお願いします!」
勢いよく差し出されたのは、収穫したばかりの野菜。
泥のついた、長く白い――どう見てもネギだった。
「バカマイコー!」
乾いた音が響く。
リュミエルの左ストレートが顎下に綺麗に入った。
次の瞬間、マイコーは糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちると、畑の土煙がのどかに舞った。
▽
――フォルキア領北部の町、グラン=テルム。
大きな湖の入り江に沿って築かれた町で、湖面には小舟がいくつも浮かんでいる。漁師たちが網を投げ、陽光が水面で細かく砕ける。水と共に生きる町だと、一目で分かった。
軽く腹を満たそうと、ソルフィーユたちは酒場へ立ち寄ることにした。
だが、扉をくぐった瞬間――空気が弾けた。
「リュミエルお嬢様! いつお帰りになったんですか!」
「リュミエルのお姉ちゃん、一緒に遊ぼ!」
「新しいメニューの名前、考えてくれよ!」
声が重なり、椅子が鳴り、店内が一気に熱を帯びる。
気づけば、グラン=テルムの住人たちがわらわらと集まり、リュミエルの姿は人垣に呑み込まれていた。
笑顔、歓声、手を振る子どもたち。
それは歓迎というより、帰還を待ち続けた者たちの解放だった。
ソルフィーユは少し離れた位置から、その光景を静かに見つめる。
この町にとって、リュミエルはただの領主の娘ではない。
名で呼ばれ、肩を叩かれ、冗談を投げられる存在。
だが、リュミエルの笑顔は、作り笑いを張り付けているだけだった。




