フォルキア領 北の森
ペルジーオを出て三日。
馬車は本来の街道を外れ、まだ薄暗い村道を進んでいた。
夜明け前の空は淡く、靄に沈んだ家々の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
門前で馬車が止まる。
ソルフィーユが降り立ったとき、籠を抱えた女が畑の方から戻ってくると足が止まる。
視線がマルタに触れた瞬間、籠が滑り落ちた。根菜が土を跳ね、転がる。
「……マルタ?」
掠れた声が、明け方の冷たい空気透き通るように響く。
少年が一歩、踏み出すと女は躓きながら駆け寄り、その体を抱きしめた。肩が細かく震え、嗚咽が朝の空気を震わせる。
リュミエルの呼吸が乱れる。顔を背けた睫毛の先に、光が滲んだ。
ソルフィーユは視線を空へ逃がした。
東の端がゆっくりと白み、昇りかけた朝日が、抱き合う二人の背中だけを照らした。
救えた命が、一つ。
胸の奥で、救えなかった命の名が浮かぶ。
▽
「挨拶はよかったのか?」
マルタと別れて半日と少し、夜空の下で干し肉を噛みながらガルドが言う。
焚き火の煙が横に流れる。
「はい。マルタは両親と会えました。私たちは旅を続けます。それだけです」
「村で聖レイディア教の布教でもするのかと思ったが、ソルってあまりやらないよな」
言い返そうとして言葉が止まる。
聖典を広げ、頁が乾いた音を立てた。
「ちょっと待て。ここでやるな」
「折角です。皆さんも女神レイディアに祈りを」
詠み上げる前に、ひょいと聖典が消える。
顔を上げるとガルドがそれを片手で掲げていた。
周囲を一瞥する。
街道から逸れており人目はない。
咳払いを一つ。
「罰が当たりますよ」
「せめて教会でやれ」
「ガルドは女神レイディアを信じていないのですか」
「信じてるさ。女神レイディア“様”はな。だが、神の名で金を巻き上げる連中は嫌いだ」
聖典が放られと、ソルフィーユは胸元で受け止める。
それを見た隣で、リュミエルの眉が寄る。
「……私は金儲けに興味はありません。治療は無償ですし、寄付金には関与しておりません」
「ソルフィーユ様の仰ることは真実です!」
リュミエルが食べかけの串をガルドに向ける。
「ソルフィーユ様はお金に、まったく興味がないんです! 値切りもしませんし、言い値で買いますし、まとめ買いもしますし……路銀を預かる身にもなってほしいです!」
「冗談だよ。何度かソルの仕事を見ているからな。金に興味ないのは知っていた」
ガルドが干し肉を噛み直す。
「何故、ソルフィーユ様を試すようなことを?」
「……神を信じていない目をしていたから、かな」
干し肉を持ったままガルドが覗き込むと、焚き火の光が水色の瞳に揺れた。
その瞳を覗き返すようにソルフィーユは瞬きをしない。
「ソルフィーユ様! この獣人に神の教えを一から叩き込む必要がありそうです!」
リュミエルが身を乗り出す。
「そうですね。これでも私は聖女です。私を侮辱することは、女神レイディアを侮辱するのと同義。聖典を最後の頁まで読み聞かせるまで、寝かせません」
聖典を持ち上げる。
「か、勘弁してくれ」
ガルドが一歩引く。
焚き火がぱちりと弾ける。
「……緊張感のない連中ね」
少し離れた岩の上で、セレナが呟いた。
▽
ペルジーオを出て二週間と数日。
馬車はゆるやかに進み、その先に深い森が広がっていた。
木々の隙間から射す光が、幾筋もの白い帯となって地面に落ちる。
「……」
誰もが森の入口を見ている。
その中で、リュミエルだけが瞬きを忘れたように立ち尽くし、握った手綱の端がわずかに震えている。
「どうしたのですか?」
「……いえ。久しぶりに帰ってきましたから、つい」
リュミエルが視線を落とす。彼女の指先が膝の上で絡まる。
森が近づくにつれ、彼女の声は少しずつ低くなっていたことをソルフィーユは思い出す。
「里帰りです。ゆっくり羽を伸ばしましょう」
馬車が森の入口をくぐる。
木々が頭上で重なり光が細くなる。
車輪が根を踏み鈍い振動が足元に伝わると、リュミエルの肩が、その揺れよりわずかに遅れて震える。
馬車が森道を進む。
次の瞬間、ガルドとセレナがほとんど同時に飛び出した。
「どうしたのですか?」
「……数が多い」
ソルフィーユの問いにセレナが短く答える。
森が静まり返る。
ソルフィーユは目を閉じ気を巡らせた。
木々の向こう。低い位置、右、左。
ざらりとした視線が肌を撫でる。
「リュミエル。囲まれています」
「も、申し訳ございません……」
リュミエルの声が揺れる。
手綱を握る指先が白い。
森に入る手前から返事はどこか遅れていた。
馬車が軋みを残して止まる。
ライナーとバロックが同時に武器を抜いた。
「リュミエルは馬車で待機を」
ソルフィーユが前へ出る。
木立の奥で、枝が軋む。
「キキッ」
「ウゥー!」
影が跳ぶ。
枝から枝へ、茶色の塊が飛び移る。幹が揺れ、葉が降る。
地面に降り立ったそれが歯を剥いた。
長い腕。節くれ立った指。握られた石。
「気をつけろ! フォレストエイプだ!」
ライナーの声と同時に別の影が動く。
高い位置。左右に視線が増える。
鈍い衝突音。
石が弾かれ、ライナーの盾が震える。
「馬車を守れ!」
ライナーの叫びと同時に、セレナが両手を広げた。
「風の精霊よ。風の羽衣を纏い、寄せ付けるな――『矢避けの風』」
足元の砂がふわりと舞い、馬車の周囲で空気が渦を巻く。
飛来した石が目に見えない壁にぶつかったように逸れる。
枝が軋み軌道を外して地面に叩きつけられ、風が低く唸った。
蔦を蹴り、高所を渡る影。
枝が鳴り、上から石が落ちる。
踏み込めば投石。下がれば嘲るような鳴き声。
距離が詰まらない。
「ふむ。ワシの出番かの」
見かねたバロックが前へ出る。
戦鎚の石突きを地に叩きつけると、鈍い衝撃が足元から走る。
幹が震え、葉がざわめく。
木上のフォレストエイプが悲鳴を上げ、さらに高みへ跳ぶ。
だが振動は止まらない。
バロックは動じず、地面に戦鎚を打ちつける。
「ほれ、土の精霊よ。唸れ衝動、吠えろ地の底から――『大地脈動』」
地面が低く唸った。
馬車を囲む地面が脈打つ。
土が持ち上がり、沈む。
幹が軋み、枝が折れる。
高所にしがみついていた影が弾かれ、茶色の塊が次々と落ちる。
鈍い衝撃音。
裂け目が走る。根がむき出しになり、土煙が上がる。
すべてが揺れの底へ呑み込まれた。
「……バロック、やり過ぎよ」
「馬車の周囲は被害無しじゃ」
鏃が鉄兜を叩く。甲高い音が森に跳ねる。
「しかしのお」
悪ぶれた様子もなく、バロックは割れた地面を見下ろす。
「あれら、様子が違うわい」
土煙の向こうに、まだ動く影。
「フォレストエイプは群れぬ。あれほど集まり、人を囲むことも滅多にない」
「バロック殿の言う通りです」
揺れが収まりきらない地面を見つめたまま、リュミエルが一歩、前へ出る。
「フォルキア領北のこの森には、多様な魔物が棲みます。ですが――フォレストエイプは、もっと南。エルフの国、エルヴァシア森王国が縄張りのはずです」
リュミエルの声が低い。
「しかも、群れるなど……聞いたことがありません」
「フォルキアの町や村が気になるな」
ライナーの言葉が零れる。
道具を握った影。
数で押し寄せる魔物。
人の匂い。
視線を森へ戻すと土煙の向こうで、森がざわめいていた。




