<第一部 マンハッタン島編 第七章『最大公約数』シーン1-2>
(シーン1-2)
ソロモンの回答は、意味不明だった。どうやら、“数学語”で書かれているようだった。だって、『Q1.使用可能言語を全て記入せよ』に本人が『Math(数学)』だけしか書いていない。英語すらMathより地位が下らしい。
ハイスクールの数学の授業では、アーロンはとくに成績が良くはなかった。いや、はっきり言って悪い方だった。ただ、冒険小説好きが高じて、科学雑誌もたまに読むし、ドクターH.G.、つまりヒューゴー・ガーンズバックの雑誌『エレクトリカル・エクスペリメンター』の校正のアルバイトもしたことがある。だから、ハイスクールで習った以上の数学的トピックも、雑学的に知っている。10進法と12進法を解説できるのも、そういう知識があるからだ。
そういうわけで、ソロモンが『Q4.最も尊敬する大統領または軍人を挙げよ』に書いてある人名が高名な数学者であることがわかるし、『Q5.宗教的信条または人生観を20単語以内で述べよ』に書かれている数式が、大学以上でないと教科書にすら載らない記号を使っていることもわかる。
ただ全体的には、ソロモンが何を言いたいのかはわからない。たぶん、“数学語”を読める人でないとわからない。
(『地下室の手記』の“2×2=4”の話、ソロモン君に聞いてみようかな?)※
でも、興味はあるけど、怖くもある。こちらに分かる言葉で答えてくれなさそうだ。同じアメリカ人なのに外国人にインタビューするような心持ちだ。
サイディスの回答は言葉が圧縮されすぎて抽象的だったし、デモスの回答はギリシャ神話と哲学の知識をフル動員してもわからないところがあったが、ソロモンのよりはまだとっつきやすかった。
(ここまで独自的な感性を持ってて、しかも他人に公開することを全く動じないってことは…)
それは、信仰と呼べるレベルの確信を、ソロモンは数学に対して抱いているということだろう。宗教史を研究するものとして、宗教力とセンス・オブ・ワンダーの一例として、ソロモンからの世界の観え方は調査に値する。
エリスの回答はさっき読んだし、アーロンは時間が5分余る。エリスもアーロンの回答をすでに読んだし、サイディスはそれぞれを読むのに1分もいらないみたいだし、ソロモンはそもそもアーロンたちには興味がないみたいだし、デモスは全員分のをまだ真面目に読んでくれているが、少なくともアーロンは手持ち無沙汰になりつつあった。
バーナビーはというと、さっきから北側にある窓のそばで外の大通りを見下ろしている。5階なので通勤の喧騒もほとんど聞こえないが、バーナビーは誰かが来るのを待っているようだった。
「質問、…しても良いんですかね?」
おずおずと挙手をしてみると、エリスもサイディスも首を振った。
バーナビーがゆっくり振り向く。
「話を聞いていなかったのか?他の全員の回答を読むようにと言ったが、質問交流は後回しだ」
低い声だったが、はっきりとした制止だった。
「9時の約束で来る予定のメンバーたちが、さきほど1階に到着している。今のうちに少しでも身なりを整えろ」
その言い方からして、来るのはどうやら“偉い人たち”らしい。
アーロンは慌てて机の上の紙を揃え、パンの欠片を捨て、シャツの襟を直し、寝癖を押さえた。
アーロンだけではなく、鏡のない部屋で、それぞれが自分なりに“整える”努力をしている。
「私だって、君たちの回答について疑問や質問がないわけではないが…」
愚痴をつぶやきながら、バーナビーもネクタイの結び目の位置を調整している。
とくにソロモンの、だろうなぁ。僕も昨日、“宗教力とは?世界平和とは?”って詰問されたけど、ソロモンはもっと追求が厳しそうだ。せめて数学者じゃなくて大統領を書くべきだろ…
エレベーターが5階に到着した音がした。
バーナビーは懐中時計を見て、
「8時48分。さすがに軍人は、時間通りの行動をしてくれる」
コンコン、とノックがされ、バーナビーが扉を開ける。アーロンたちは起立して迎えた。
※第一部第四章『懺悔室の手記』シーン4(ep.53)をご参照ください




