<第一部 マンハッタン島編 第七章『最大公約数』シーン1-1>
<第一部マンハッタン島編 第七章『最大公約数』>
(シーン1-1)
1918年9月24日月曜日 午前8時ごろ
8時からは、デモス、サイディス、ソロモンの3人が小テストを受けていた。
いちばん遅く起きてきたソロモンは、まだ朝食を食べきっておらず、左手にパンを持ったまま、右手で記入している。
制限時間は10分。アーロンとエリスは昨日すでに同じテストを受けているため、いまはやることがない。バーナビーからは「互いの回答を見ておくように」とだけ指示されていた。
だから、アーロンはエリスの回答をいま読んでいるし、エリスもまたアーロンの回答に目を通している。
(めっちゃかしこいな、エリス君……)
エリスの回答は、文字も論理も整然としていた。
誤魔化しが一切なく、文章に迷いがない。
アーロンの、冗談で間を繋ぎながらなぐり書きした答案とは雲泥の差だ。
そもそも10分間で答え切れるような設問ではなく、アーロンは仕方なく空欄を一つ残したが、エリスは全欄を埋めている。
(普段からこういう、意見の要約をする訓練をしてるんだろうな)
政治や法律を学んでいると聞いた。弁論大会の常連だったりしそうだ。
(でも、この 『to reconcile without recoil(反動なく融和する)』 は、とても……いいな)
バーナビーが時間の終了を告げる。
3人とも数十秒前に書き終えており、用紙はスムーズに回収された。
なお、サイディスは3分は前に記入を終えているようだった。
バーナビーはアーロンとエリスの答案も改めて回収し、5人分を机の上に並べる。
「9分間、自由にしていい」と言われたので、アーロンは隣のエリスに小声で話しかけた。
「“reconcile without recoil”って、すごくいいね。声に出して読みたくなる英語だ」
「呪文なんだ。『Reco, without, Reco』。魔術師に教えられたんだ」
白い歯をのぞかせて、エリスが微笑む。
「わお! アフリカから持ち込まれた黒人の伝統魔術?」
「ハハ、アーロンならそういう反応をしてくれると思ったよ」
冗談が通じるのがうれしい。
「冗談でも本気でも、どっちでも僕には興味深いからね」
現実のようなフィクション、フィクションのような現実。
アーロンにとっては、どちらも宝石のように魅力的だった。
「アーロンはタスキーギの魔術師、ブッカー・T・ワシントンを知らないかな。ぼくの恩師だ」
父の書斎で見かけた新聞の見出しに、よく載っていた名前だ。記事をちゃんと読んではいないけど…
「ブッカー・T……あぁ、知ってるよ。穏健派の黒人活動家。でも、たしか──」
「そう、3年前に亡くなった。だから、ぼくはこの呪文を受け継いでいく」
エリスは微笑を保ったまま、目は真剣だ。
「やっぱり黒人の伝統魔術なんだね」
「そうだね。でも、黒人じゃなくても──おっと、今はよそうか」
バーナビーが次の指示を始めたので、エリスは私語をやめた。
アーロンも耳を傾けようとしながら、ふとノートに視線を落とす。
書きつけたばかりの一行が目に入る。
『Reconcile without Recoil』
アーロンの癖だ。
バーナビーの話を聞かなきゃいけないのに、その呪文に思考を掴まれてしまう。アーロンも、その手を握り返してしまう。
(ReconcileからRecoilをマイナス──Without──すると、N、C、Eが残る)
(Negro、Civil、Education……エリスの他の回答と並べると、そう読める)
(けれど、さっき“黒人じゃなくても”と言いかけてたよな)
(この呪文、白人でも信仰できるってことか?)
(だったらNegroじゃなくてNature、Neutral、Nation…)
(この言葉遊び、あとで言ってみようかな……でも、ジョークって鮮度が大事だ)
(それに、呪文は信仰対象だ。軽く扱うのは失礼かもしれないな)
自分の思考に意識を引きずり回されているアーロンの前にさっきの回答用紙がおかれ、それがソロモンの記入したものであることに気づいて、やっとアーロンは現実に戻って来ることができた。
5人全員の回答を回し読みして共有する、というのが次の課題らしい。
周囲の動きをキョロキョロ見回して、やるべきことを思い出す。
「5分間ずつだよ、アーロン」
サイディスが、アーロンのほうを見もせずに教えてくれた。




