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<第一部 マンハッタン島編 第六章『黒い真実、白い噓』シーン2-3>

(シーン2-3)

サイディスの周囲に、積極的にサイディスにかかわろうとしてきた黒人や、サイディスと話の合う黒人は少なかったのだろう。“ボクはその両立ができるかもしれないぞ”、とエリスは提案して見せた。サイディスなら、友情はともかく、少なくとも研究対象(サンプル)としての興味を持ってくれるはずだ。


「じゃあ、答えるけど…理解できなかったなら、聞かなかったことにしてほしい」

「OK、お手柔らかに」

「公園のニューススタンドを見ていたんだ。各新聞の届く順番、届く量、そこからこの周辺で働く人たちの思想傾向が分析できるかもしれない、と思ってね」

予想以上に、アカデミックな答えだった。おもわずたじろいでしまったが、失望はさせたくない。


「あー、うん、まだついていけるけど、疑問がすでにあるな」

「直線距離で50メートル以上あるから、どの新聞か判別できたのが不思議だ、ってことだろ?」

「そうそう、それ」

エリスたちのいる9階があるのは地上からざっと30メートル、公園のニューススタンド(薄い屋根と裸電球だけの、簡素な販売所)にある新聞の文字などとても読めない。


「ビリーは視力まで天才なの?」

この冗談なら、たぶん今の状況では適切だろう。“サバンナに住むアフリカ人のようじゃないか”、という比喩は、ちょっとフランクすぎると思われるので、言わないでおく。

「いや、昨日の午後4時、このビルに入る前、あのスタンドを見かけていた」

「そのときに記憶した?」

どの新聞を扱っているか、は昨日の朝の時点でエリスも観察しておいた。ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ヘラルド、ニューヨーク・トリビューン、ほか数紙。

「そう。どの新聞が、スタンドのどこに配置されているか、どの程度売れ残っているか、もね」

そこまではエリスは観察しようとしなかったし、記憶できていない。

「届いた新聞がどの新聞か、はスタンドのどこに置かれるかでわかるってことか」

「読んだことのない新聞は扱っていなかったからね。各新聞社の支社や印刷所の住所も記憶しているし、ここまでの距離も推定できる。それは届く順番の推測材料にもなる」

「なるほど」


情報を組み合わせれば、見えないものも推測できる。エリスが“塾”で徹底的に教え込まれた科学的思考法にも通じる。違うのは、記憶の量と精度だ。

「そして、昨日売れ残っていた量とさっき届いていた量を比較する」

「それなら、どの新聞が売れるのかはわかるね」

「そういうこと」

「新聞の売れ行きで思想傾向の分析をするのは妥当だ。 “I see you.”理解できたよ。証明終了!」

結論を先回りして述べるとともに、わざとおどけてギャグっぽくする。このポーズをしておくことで、“黒人にしては、けっこう賢いだろ?”“でも、君ほどには賢くないからこれ以上高度な話にはしないでくれよな”と言いたいのだと、読み取ってくれるはずだ。


サイディスが何か言いかけたが、先に話題をそらす。

「でも、すごいな。そこまでたくさんのことを覚えて、考えて。神経が疲れるわけだ」

少し首を振ってサイディスは、

「疲れたりはしないな。常にやっていることだし…」

また、寂しげな表情をしている。

「習性としてやってしまう、というか…その点は、…エリス、きみと同じだ」


――やはり、色々と読み取られている。読み取らせようとしたこと以上のことを。

(『Reco, without, Reco』)

合言葉をまた心の中でだけ唱える。『反動なき融和』のためには、サイディス相手に嘘はつけない。嘘をつくなら、バレてもバレなくても有益になる嘘でなければならない。


罪のない嘘…White-Lie(ホワイト・ライ)。正直さが悲劇を招くジレンマを“塾”の創始者たちは強く意識した。黒人が率直に怒りを表明し、それによって黒人が余計に死んだり、双方が憎悪を余計に募らせりすることが、数えきれないほどにあった。創始者たちはその歴史を繰り返さないことを“塾"の教育方針とした。だから、『反動なき融和』のためにはホワイト・ライは必要で不可欠だ、とエリスは教えられてきた。今となっては、エリス自身が、自分の言葉が本心なのか、防衛のためのホワイト・ライなのか、分からなくなってしまっている。

白い嘘は許され、黒い嘘だと許されない――この表現自体が人種差別的では?という議題もある。サイディスは言語学者でもあることだし、“塾”では答えの出なかったその議論のつづきを、サイディスとはしていくべきかもしれない。知性的でリベラル思想で、かつ穏健派の黒人学生であるエリスが、そういう振る舞いをするのも不自然ではないだろう。

そう思うのは本心なのか、自分自身へのホワイト・ライなのか、エリスにはどちらでもかまわない。自分が常に『反動なき融和』を目指している、という確信は揺るがない。

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