<第一部 マンハッタン島編 第六章『黒い真実、白い噓』シーン1>
<第一部マンハッタン島編 第六章『黒い真実、白い嘘』>
(シーン1)
1918年9月24日火曜日 午前4時ごろ
室内。
暗い。
二段ベッド、の下段。
差し迫った危険は、ない。
エリス・C・ダベンポート21歳は、暗い室内で目を覚ました。窓からはわずかな星明かりしか差し込んでこない。夜明けはまだ遠い。ここはハワード大学の寮…ではない。
先ほどまで見ていた夢を忘却の彼岸へ追いやり、状況の正確な把握に努める。
深い呼吸を2回、まばたきを数回するうちに、昨日の出来事の記憶を最初から最後まで、並べ、つなげ、整理をしなおす。
ここはマンハッタン島、共和党クラブビルの9階。窓は北向き。時間はおそらく午前4時の前後10分以内。同室に3名以上、睡眠中のものがいる。昨日会ったばかりのアーロン、デモス、ソロモンたち、十四か条調査団のメンバーだ。
(調査団メンバーは高学歴の学生ばかり。この集団なら5時起床が健全に見えるだろう)
そして、目立たないためには約1時間、寝ているフリをするべきだ、と判断する。起きるのが早すぎれば、”理解できない存在だ”と思われる。遅すぎれば、”怠惰だ”と思われる。同時だと、”白人に似すぎている”もしくは"白人に合わせようとしていて卑屈だ"と思われる――。
『目が覚めたら、動く前に動くべきかを考えろ。それが身を守ることにつながる』
――それは、"塾"で10年以上前に教えられ、以来訓練しつづけてきた防衛策。今では習性として染み付いてしまった。
『本能を隠せ。衝動を偽れ。そうでなければ危険が迫る。そうでなければ融和は成らない』
時計を見ずともだいたいの時間がわかるようになったのも訓練のたまものだ。
しかし、身体の感覚が、エリスの経験と知識にもとづく判断とは別の意見を出してきた。
(サイディスはどこだ?…起きているのか?)
室内で聞こえる寝息は3名ぶん。
二段ベッドが6台あるこの部屋で、窓際のベッドで寝るエリスの上段ではアーロンがいびきをかいており、逆に廊下側の2台の二段ベッドに、デモスとソロモンとサイディスは寝ていたはずだ。サイディスのベッドにだけ気配がない。
ドアを開けて出て行ったのなら寝ていてもエリスは気づく。室内にいるはずだ…と、姿勢は動かさずに薄目だけを開けて見回し、窓側のもう1台、エリスたちとは別の二段ベッド、その下段に腰掛けているサイディスを見つけた。
窓の外を物憂げに見ている。
(図書館のそばの公園の木々…たしか、ブライアント・パークという名前の公園…しか見えないはずだ。何を見てる?)
エリスはすぐ目を閉じた、が、エリスが気づいたことにサイディスが気づいた、ような気がなぜか、する。
エリスは口の中だけで唱える。
(『Reco, without, Reco』)
"塾"の合言葉。
精神を落ち着かせ、思考を怜悧にするためのルーティン。
(IQ300説もある超天才、神童サイディス。睡眠時間も短いのか?)
昨夜の就寝時間は5人ともほぼ同時だった。エリスは、自分より早く目覚めるものがいるとは予想していなかった。
予想以上の天才なのなら、エリスが実は起きていることに気づいていてもおかしくはない。否定する根拠となる情報は記憶の中にない。
『目立つな。半歩だけ白人たちの先を行きながら、半歩遅れているように装え。決して、一歩以上の差をつけるな』
――それが、"塾"の教え。孤児だったエリスを育ててくれた、世界一誇り高い教育機関の基本理念。
半歩先を行くために必要なのは、何か?
(相手がどこをどの方向へ、どのくらいの速度で移動しているのかを、見極めること――)
教条の第2行目にあたる部分を反芻する。
(つまり、ボクはサイディスを見極めきれていなかった)
この集団での"中庸で健全な黒人の在り方"を、設定しなおさねばならない。
――だからエリスは、薄目をもう一度開け、サイディスに向かって微笑みかけることにした。窓からの星明かりに照らされた微笑みが、サイディスからも返ってきた。
さて、今の思考はどの程度、この天才に読み取られたのだろうか?そして今後は、こちらの意図をどこまで読み取らせるべきだろうか?――できるだけ早いうちに、それを見極めねばならない。"塾"がめざすのは、最も穏健で、最も堅実で、誤謬と後悔のない『Reconciliation without Recoil(反動なき融和)』なのだから。




