<第一部 マンハッタン島編 第五章『ラフ・メンバーズ』シーン2>
(シーン2)
11時45分 00秒。
アーロンとエリスへの語学講義は、順調だった。ヨーロッパ各国の言語を一通り教えようとして、“ほぼ、何も教えられた気がしない”という意味で、予定通りだった。
2人の語学力は事前情報と小テストで把握している。エリスはフランス語・スペイン語・ポルトガル語に堪能で、バーナビーがまだ習得していないエスペラントも少し話せる。アーロンはフランス語がカタコトできる程度。セナ・グレイウィンドが不明なのを除けば、アーロンが調査団メンバー内で語学力最弱だろう。
一方で、バーナビー自身は教師としての経験がない。だから、理論的な教え方など知っているはずもない。語学は練習量だけが正義だ、という思想でバーナビーは7か国語を身に着けてきた。 この3週間、毎晩1時間かけて、つまり21時間で20ページの単語帳を作った。政治・外交・戦争関連で頻出する単語200語をそれぞれ英語・フランス語・イタリア語・ラテン語・ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語で列記した。
1ページにつき10英単語、70語句。それを20ページ、合計1400語句、誤字は1つもない。
自分自身の復習にも役立った。ロシア語も加えたかったが、まだ学習を始めて1年しか経っていないので、正確性を担保できないと判断した。 (それに、キリル文字を打てるタイプライターがない)
「文法や修辞を習得しても、単語がわからなければ会話はわからない。私は文法を教える技術と知識はないが単語は知っている。だから単語を覚えてもらう」
――講義開始時のその方針に2人の生徒は納得してくれた。配布した単語帳の出来の良さにも感心してくれた。しかしその2分30秒後、アーロンが
「単語の発音…っていうか、読み方がわかりません。とくにドイツ語の」
と言ってきた。 盲点だった。
"読み方なぞ文字を読めばわかる"と思っていたが、9分40秒の議論の結果、それは私が学習済みだからそう思うだけだったのだ、と認めざるを得なかった。学習済みと未学習では見えている物が違う…ハイスクールのころ、フットボールのルールを未経験の新入部員たちに教えていたころの苦労を、忘れてしまっていた。ハワード大学のフットボールチームで副キャプテンを務めているエリスがそれを思い出させてくれた。私より彼のほうがリーダーの素質があるのは確かのようだ。
大きなつまずきだったが、つまずくことは想定内だ。教師をするのは初めてなのだから。その後の時間の大半を使って、ドイツ語の発音の基本ルールを教えることになった。英語と違って特例は少ないのだが、エリスはともかくアーロンは基本的なところでのミスを繰り返している。
「Wasser(ヴァッサー=水)」を“ウァッサー”と読む。「Vater(ファーテル=父親)」を“ヴァーテル”と読む。「Ich(イヒ=私)」を“イク”と読む。
そして彼はそのたびに「これ、プラグマティックなんですか?」と不満を言う。
センス・オブ・ワンダーと宗教力の次はプラグマティックか。まぁ、プラグマティック(実用的)は理解しやすいし、推奨していきたい。
「though, through, tough, tongue, 英語だが、アーロン君はどうやって発音を覚えてきたんだ?」
「…慣れ、ですね」
「正しい学習の仕方だ。必死で慣れろ。それがプラグマティックだ」
語学は練習量が正義だ。2時間20分の講義での練習は、2時間20分ぶんにしかならない。が、2時間20分ぶんにはなる。アーロンは今日の9時時点よりも、2時間20分ぶんだけドイツ語能力が成長した。
私も、2時間20分ぶんだけ講師としての経験を積めた。きっと講義の上手いヘタも、練習量が最大の正義なのだ。
11時59分45秒。
「時間なので、講義を終わる。12時55分まで昼食休憩。13時00分からは地理の講義をおこなう」
12時00分00秒、アーロンとエリスが同時に机に突っ伏した。
地理の講義もバーナビーはしたことはないが、山や川や都市の位置の方が語学よりは教えやすいだろう。国境が変わっても、それらの位置は変わらない。発音の特例や名詞の性別で迷うこともない。
そして15時には、マサチューセッツからの3人も到着するはずだ。そうなれば次のプログラムに移る。順調に予定をこなせている。




