<第一部マンハッタン島編 第四章『懺悔室の手記』シーン4>
新潮文庫『地下室の手記』ドストエフスキー作・江川卓訳
よりセリフを引用しています。
(シーン4)
9月22日日曜日 夕刻
考えをまとめたくて、歩いて帰ることにした。ロウワーサイド(島の南側)の自分のアパートではなく、アッパーサイド(北側)のコロンビア大学へ。地下鉄を使わなくても大体2時間もあればつくだろう。
セントラルパークを突っ切れば少し早いが、人目につかないところに行きたくはないので繁華街を歩く。
カーネギーホールのあたりまでくると、もう完全に日常の光景だ。ファーリー大司教の葬儀のことなど、みな知らないような顔をしている。あの長蛇の列に並んでいた弔問客たちも、この通行人たちのなかに紛れているのだろうか。もしくは、ホールのチケット売り場に並んでいる客たちや売り子たちは、明日とか明後日の葬儀に参加するのだろうか。
“神とは、愛であり理である”
格子の向こうの神父様が言っていたことを反芻している。
"理解に迷っても、愛を忘れなければそこに神はいる"
人間の社会も、行動も、全ての要素が理か愛のどちらか、または両方で成り立っている…という気がする。ならば、キリスト教の神の宗教力は、人間社会の全てに満ちているということになる。
では、理解も愛も拒んだらどうなる?
ふと、思い出すことがあって、立ち止まって『地下室の手記』を開く。
パラパラと、ページをめくる。最初のほうに、その箇所はあったはずだ……あった。主人公は数学という理について愚痴を垂れている。
『いったいその自然の法則だの数学だのが、ぼくになんの関わりがあるというのか?なぜか知らぬが、ぼくにはそんな法則だのニニが四だのは、さっぱり気にくわないというのに。』
『むろん、ぼくにはその壁を額でぶち抜くことはできないだろう。』
『しかし、だからといってぼくは、…この壁と妥協したりはしないつもりだ。』
2×2=4もまた、理であり、ならば、神と同一の存在であり、絶対的な価値を持つLogosなのかもしれない。それを、ぶち抜くことはできないまでも、妥協はしないと地下室の男は言う。
2×2は絶対に4なのだろうか?
2を2回かけたときに4になるのは根本原理なのだろうか?気にくわないなどということを思いもせずに受け入れていたが、もし“気にくわないから受け入れない”ことが可能なのなら、そのときの判断基準となっているのがセンス・オブ・ワンダーなのだろうか?マニング先輩が与えてくれた仮説では、センス・オブ・ワンダーは宗教力を感覚する。数学もまた宗教ということになってしまう。
(数学の宗教力、…か)
それに疑問を抱くのを、楽しいと感じているアーロンは、たぶんまだ地下室から出る気がない。
日曜の夜だが、今夜もマニング先輩といっしょに大学に泊まる。先輩は旅に必要なものを買ってきてくれていた。明日からは共和党の事務所に泊まらせてもらおう。
学校での奇妙な宿直生活はこれで最後だということで、先輩はウォッカという酒を棚の奥から出して飲ませてくれた。一口飲んだところで「『戦争と平和』にも出てきただろ?」と聞かれたが、答える前にアーロンは昏倒した。
<第一部マンハッタン島編 第四章『懺悔室の手記』完。1918年9月22日終了。翌日の第五章へ続く>
第五章シーン1以降は10月19日に投稿予定です。数学の宗教力については、量子力学とゲーデルの不完全性定理を踏まえて展開するつもりですが、小説化できるのはいつになることやら、10年後かも?くらいの感じです。




