<第一部マンハッタン島編 第四章『懺悔室の手記』シーン3-7>
参考文献:
文藝春秋『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか? GOD A HUMAN HISTORY』レザー・アスラン著 白須英子訳
(シーン3-7)
〈神学校の学者が議論するような難題を、あなたのような若者がご存じとは。なかなかの読書家だね〉
「大学で宗教史を研究しています。ただカトリックには全然詳しくなくて…地球にある全部の宗教のことが気になっちゃって。文書仮説のことを知ったのも、最近です」
ヴェルハウゼンはさらに、宗教進化論仮説も述べている。
原始的な自然崇拝が最初にあり、
多神教(ギリシャ神話など)が生まれ、
多神教が単一神教(エジプト王家の信仰など)を生み、
さらに拝一神観(主神以外のほかの神が邪神として攻撃される)を経て、
現在の形の一神教へと進化する。
ヴェルハウゼンの解釈では、例えば、聖書の中の『申命記』には多神教的に他の神の存在を“主”が認めているような描写と、“存在は認めるが崇拝は認めない(モノラトリー的)”という立場をとっている描写と、“主”以外に神はいないと強弁しているように見える描写(モノセイズム的)が混在しているという。だから、作者が二人以上いる=二派以上の宗派の経典が統合して聖書をかたちづくっている、という説になる。
「聖書にはヤハウェとエルの二柱の“主”が述べられているという読み方について、カトリックの方はどう思われているのですか?」
〈よく学んでいますね。では、カトリック教会の代表者として、真剣にお答えしましょう〉
驚くほどに、本当にちゃんと説明してくれた。アーロンはメモ用具を持っていなかったので、あとで必死に思い出して書き留めたのが以下だ。
【第一に、ヤハウェ(YHWH)とエル(El)について。
イスラエルの神は唯一である。(申命記6:4)。典礼でも、ラテン語でDeus(El系)とDominus(YHWH を訳したもの)を使い分けるが、異なる呼び方をしていても指しているお方は一柱。ゆえに「二柱の神」という読みは、教会としては受け入れません。
第二に、ヴェルハウゼンの説について。
聖書の研究として、伝承や文体の違いを手掛かりに編纂過程を検討すること自体は、慎重であれば許される。ただし啓示された信仰を進化論のように扱うことは、教会としては否定する。神が歴史の中で段階的にご自身を人間に理解しやすいよう知らせてくださったという解釈ならば可能だが、それは「多神から一神へ人間が発明した」という意味ではない。
第三に、学び方の姿勢。
テキストに複数の語彙や様式が見えるのは事実。だからこそ、テキストが何を意図して語るかと、それを通して神が何を明らかにされたかとは、区別して読むことが必要。学問は信仰の敵ではありません。ただ、学問が君を地下室へ閉じ込めるのではなく、光へ導くように使いなさい。】
シーン3-8以降は10月18日に投稿予定です




