<第一部マンハッタン島編 第四章『懺悔室の手記』シーン3-2>
(シーン3-2)
「…すみません!さっきまで読んでいた小説の話なんです。僕がその小説を読んでたのを彼が何で知っているのかも気になるし、小説の解釈としてもどう受け取ればいいのか気になるしで…、えっと、『地下室の手記』というロシアの小説のことなんですが…」
格子に向かって本を突き出す。向こうからは見えているのか見えていないのかは、わからない。
〈なるほど……その題名は耳にしたことはあります〉
「読んだことはないですか?」
〈正直に申しまして、わたし自身がその書を手に取ったことはありません。ロシア文学は伝統的な教えに対して批判的だ、という風説もあります〉
あぁいう小説だと、読むだけで不信心っていうことになるのかなぁ?
〈けれども、息子よ、もし仮に冒涜的な書物であるとしても、出会った事実そのものに意味があるのです。その出会いから何を感じ、どのように神の御前で問い直すのか――それこそが大切なことなのです。だから、不安や動揺が残るなら、いまここで神に差し出してみなさい〉
「はい…。その小説の主人公は、自分のことも世界のことも嫌いで、全てを呪っているんです」
アーロンは、訥々と説明を始めた。ダブル・ホワイトに出会ったせいで、もともとは何を訊く気だったかをさっぱり忘れてしまっている。本当はこんなことをしている場合ではないのかもしれない。ただ、今はこれに没頭していないと不安すぎる。手に持ったままの『地下室の手記』を時おりめくりながら、この初めてあじわう味のした文学作品の概要を、整理できないままに語っていく。
――主人公は、地下室にこもって、世界を全部見下して、世界の全ては無価値だ、ということに気づかないすべての他人を見下して、そして世界に価値を与えられない自分もまた無価値だ、と見下している。地下室の中で自分の呪いだけを反復して、培養している。
「それで、小説の後半になると地下室から出て同僚や女性や、他者と関わる場面があるのですが…結局、地下室からは出てないんですよね、比喩的には。その解釈は、さっき彼に言われた言葉でそう気づかされたのですが…」
〈……なるほど。先ほどの彼が君に投げかけたのは、その小説の登場人物のことではなかったということなのですね。――君は地下室から出てこられるのか、と〉
伝わったようだ。さすがに神父様は聞き上手だ。
〈聖書にも似た話があります。預言者ヨナがそうでした。神の呼びかけを恐れ、使命から逃げ、ついには海の底の、魚の腹の中へと閉じこもったのです。暗い腹の中は、まるで地下室のようでした。彼はそこで、自分の無力と罪を見つめ続けます。しかし、神に向かって心を開いたとき、海の底からも祈りは届き、ヨナは吐き出されて光のもとに戻ったのです(ヨナ2:1~10)〉
聖書は当然ひと通り読んでいるアーロンだが、詳しく覚えていない。次に時間があるときに調べなければ。
〈息子よ、人は誰しも地下室を持つものです。閉じこもり、呪いの言葉ばかりを繰り返すときもある。しかしそこにとどまり続けるか、それとも神に向かって扉を押し開くかは、あなたの選ぶ道なのです。いまあなたがその小説に心を動かされているのは、神があなたに“地下室から出る時が来たのだ”と示しておられるからかもしれませんよ〉




