<第一部マンハッタン島編 第三章『セレクト・ユア・ポリシー』シーン3-2>
(シーン3-2)
「でも、ほかの可能性は考えなくて良いんですか?パンと栄養の関係だとか、"美味しそう"という予想段階の印象だとか…」
パンを咀嚼しているマニング先輩が呑み込みおわるのを待ちながら、反論してみる。
「それに、ForceもSenseも、それぞれの概念の的確な表現とは限らない。パンに見せかけた別のものかも、しれないじゃないですか…粘土とか?黄金でもいいけど」
アーロンの反論は屁理屈だが、アーロンはマニングの言っているのがそもそも屁理屈だと疑っている。
呑み込みおわるマニング。
「別の解釈は、別の直感をひらめいたときに考えればいい。または、自分ではない別の誰かがその別の直感を考えてくれる」
「そんなんで良いんですか?」
「ユージン・デブスは老子だ、と論文に書くようなものだ」
それ、アーロンの論文の失敗比喩…!
「せ、先輩も読んだ!?」
「翻訳も、そういう作業だ。直感は手がかりになるし、むしろ、直感を手がかりにするしかないときが多い」
無視された。当然なので言うまでもない、と言われた気がする。
「правдаを“truth(真実)”にするか“justice(正義)”にするか"veracity(正直さ)"にするか…そこは結局、ポリシーの問題になる」
たぶん、スラヴ語の話だ。文法構造が英語と異なるだけでなく、翻訳が難しい単語も多いらしい。
「ポリシー、方向性。どう翻訳されるべきか、は"翻訳者がどう翻訳したいか"、でしかないということだな。直感みたいな薄い手がかりを信じて、まだ字の読めない子供と目が見えなくなった老人の会話の中で用例を見つけて、そんな脆い足場と頼りない光を頼りに、上へ上へと、上っていくんだ」
お、なんかカッコいいことを言ってくれそうだぞ。
「先達の理論を踏み台にし、後進の理論の踏み台になって…」
どんな締めの句が来るんだ…?
「”言語の壁”を、越えるために」
先輩はキメ顔でそう言った。か、カッコいい〜!
ひとしきり感嘆したあとで、
「ところで、こっちの残ったパンは?さっきは"こっちがセンス・オブ・ワンダーだ"って」
とアーロンは訊いてみた。
「必要なかった。お前が食っていいぞ」
「え?」
「お前との雑談は講義記録には残らん」
目をそらしている。先輩も比喩を失敗してた、というか途中で軌道修正してたの?
「じゃあ、このパンはなんなんですか?」
「パンはパンだろ」
「……」
「黄金でもないし、粘土でもない。もちろん老子でもアーサー王でもない」
「……」
いや、このパンはセンス・オブ・ワンダーだ。そう思ってアーロンは、自分の口にそれを押し込んだ。
「あ、キリストの体であるとは考えられるな。ちゃんと感謝を捧げてから食べたか?アーロン」
「……」
パンを口に入れたまま、食前の祈りを頭の中でつぶやいたことにしてから、アーロンは咀嚼を始めた。ワンダーな味がした。




