<第一部マンハッタン島編 第三章 シーン0.5『アーロンの小論文』(挿話・副読本的資料)>
今回は読み飛ばしても大丈夫なやつです
(シーン0.5)
小論文『従軍記“The Rough Riders”を宗教的書物として読むことの可能性について』
以下は、私が大学院で学び始めて五か月の所感をまとめた備忘録的レポートである。いまだ体系だった研究と言える段階にはないが、三つの経験――セオドア・ルーズベルト『The Rough Riders』の再読、ユージン・デブスの演説傍聴、そして年初のウィルソン大統領による「十四か条」演説――が、私にある類比を強く喚起した。その類比とは、三者をそれぞれ宗教的指導者の型に擬することである。すなわち、ウィルソンは「アメリカ法王」、ルーズベルトは「アーサー王」、デブスは「老子」である。本稿はこの比喩を足場に、政治的言説が人々の心を動かす様式を、宗教的語彙を借りて素描しようとする試みである。
一. ウィルソン大統領――「アメリカ法王」の像
一月八日の議会演説における「十四か条」は、単なる外交方針の列挙にとどまらず、条文の順序と調子が、一連の典礼手順(儀式)のように聞こえた。第一条から第四条までで世界の「公正な場」を整え、ついで各民族問題へと秩序立てて進み、最後に国際連盟の創設へと収斂する。その配列は、告解―赦し―聖体拝領へ至る流れに似た、段階的な浄化と共同体の形成を連想させる。
この語り方において、ウィルソンは個人の徳性を超えた、制度=教会を背負う牧者としての身ぶりを示す。すなわち、個別の善悪を説く説教者ではなく、世界の秩序を「正統化」する解釈権の保持者として語っている点で、彼は「法王」的である。演説を聴く者が、論点の妥当性のみならず、形式の荘厳さに心を整えられるという事実――ここに宗教的効果があるように思われる。また、現ローマ法王ベネディクト十五世が昨年八月に発表した「七項目の和平計画」をウィルソンは参考にしたと思しく、「十四か条」との共通点を複数の識者が指摘している事実は、この比喩の妥当性を幾ばくか補強するであろう。
二. セオドア・ルーズベルト――「アーサー王」の像
一八九九年の著作『The Rough Riders』は、戦記であると同時に、英雄譚の口調を有している。著者自身が戦場での規律・友情・機略を、騎士道の徳目のように配列して語るため、読者は物語的同一化を通じて武徳の体系を「生きられた倫理」として受け取る。ここでの求心力は、ウィルソンのような制度の荘厳ではなく、物語の興奮と人物の魅力である。
ゆえに、彼を擬するなら「アーサー王」がふさわしい。王は円卓を囲む騎士たちとともに冒険へ向かい、その帰結によって共同体の徳が確証される。ルーズベルトの叙述もまた、行為と経験の物語化を通じて、読者に「ともに立ち上がれ」と促す号令となる。すなわち、制度が信を与えるのではなく、物語が信を先行させる構造である。
三. ユージン・デブス――「老子」の像(未熟な試案)
先ごろ某会場で聞いたデブスの演説は、怒りにも似た静けさを帯びていた。彼は大規模な制度や軍事的栄光を正面から称揚せず、むしろ弱き者、名もなき労働者の側にひたすら留まることを勧める。その語りは、力を奪い合う政治の表舞台に背を向けるようでいて、しかし聴衆の胸のうちに「いま足もとを確かめよ」という反省の動きを起こす。
ここで私は、東方の思想――たとえば「無為」を説く老子――との近似を直観した。が、私の知識は甚だ浅い。老子を引くのは無礼かもしれないが、少なくとも「小なるものの持続」「柔の勝利」という観点から、デブスの語りは、制度的荘厳や英雄譚とは別種の宗教的調子を帯びると感じられた。大河のように世を押し流す理念ではなく、地下を沁み渡る水脈のような呼びかけ――それが彼の言葉の力である。
四. 三者比較と方法についての覚え書き
上の三像は、政治的正当性を「どこに据えるか」という差異として整理できる。
(1)ウィルソン=制度の正当性(秩序の解釈権)。条項の列次は儀礼の段取りに似て、聴衆を共同体の高みへ運ぶ。
(2)ルーズベルト=行為の正当性(物語の証明)。経験が徳を可視化し、徳が共同体を駆動する。
(3)デブス=生の正当性(静かな反省)。弱者の持続と日々の実践が、政治の価値を底から測り直す。
これらはいずれも、数字や統計以前に、人が「納得する」筋道の形である。すなわち、政治の言葉はしばしば宗教的形象――儀礼、英雄譚、清貧の智――を借りることで、抽象を具体に、理念を日常へ橋渡ししている。私がここで宗教的比喩を用いるのも、その働きを測るための便宜にすぎない。
五. 実用主義への短い言及
デューイ先生の講義から私が拙く理解する限り、真理は「行為の帰結」によって試される。もしそうなら、上記三像は、どの語りがどんな実際的結果を生むか、という観点から評価されねばならない。
制度の荘厳は、広汎な同意を組織する点で有効である一方、空疎な形式に堕する危険がある。英雄の物語は、迅速な行動を促す力を持つが、経験の偶有性に流されるおそれがある。弱者の反省は、足もとの倫理を鍛えるが、広域の制度設計には距離がある。
実用主義の語彙で言えば、三者はいずれも「うまく働く」局面を持つ。だからこそ、どれか一つを絶対視するのではなく、場面ごとに適した語りの形を選び取り、必要に応じて組み合わせることが、民主政治の健全さに資するのではないか――以上が、今の私の幼い結論である(理解が浅い点は今後の学習で補いたい)。
結語
本稿は、政治指導者を宗教的指導者に擬するという無礼な比喩に依拠している。だが私の意図は人物崇拝に与することではなく、人間が政治を理解し、参加し、支える際に働く「語りの型」を仮に名指すことにある。
「十四か条」を儀式として聞く耳があり、『The Rough Riders』を騎士道物語として読む目があり、デブスの声に静かな道を思い描く心がある――その多様さ自体が、アメリカの公共性の豊かさであるように思う。私たちは、どの語りにも安易に酔わず、しかしいずれの語りの効用も利する術を身につけるべきだ。
大学院生活五か月の稚拙な報告ではあるが、以上の素描が今後の研究の仮の地図となれば幸いである。なお、ここに挙げた比喩の妥当性、特にデブスと老子の連関については自信がない。関連文献の読書を進め、機会を得て批判的検討を加えたい。
一九一八年三月 Aaron.J.Neighborhood
(Columbia University Graduate School / M.A. Candidate, Department of Philosophy – History of Religions / Class of 1919)
―――という、自分の半年前の論文を地下鉄の中で読み直し、アーロンは周囲の乗客から気づかれないように身をよじらせていた。書いていたころの、根拠も計画も反省もない高揚感を思い出す。書き終わったときは会心の出来だと思ったのに、いま見直すと粗ばかり目につく。
(稚拙って言っておけば稚拙な論理展開でも良いってもんじゃないだろ…)
(複数の識者、って誰だよ…?いやまじで誰だっけ…?)
(とはいえ、このテーマ以外は筆が進まなかったんだよなぁ)
”高評価される論文は結論が全体の堅実な要約になってる”とシュナイダー教授が教えてくれたのは、”そういう論文を書くように努めろ”ということなのだ、と今さら理解する。
一番恥ずかしいのは、「東洋思想のことはこれから勉強します!」みたいなことを末尾に書いておきながら、この半年で結局老子のことも孔子のことも調べていないことだ。
(今からイナゾー・ニトベの『Bushido』(新渡戸稲造の『武士道』)買いに行こうかな…?いやでも、十四か条の調査旅行ではジャパンもチャイナも行くわけないしな…)
苦悶している間に自宅の最寄り駅に着き、アーロンは地下鉄駅から地上に出る。久々にテネメントに帰ろう。『白の組織』が怖いから、明るいうちに色々済ませよう。
(第三章『セレクト・ユア・ポリシー』シーン1へつづく)




