39話 不穏な空気
「受験のことで何か聞きたいことがあったら、遠慮なく連絡してね」
「はい。今日はありがとうございました」
大学から最寄り駅まで歩いた。
先輩とは帰宅方向が異なるため、ここでお別れだ。
大学を出る前、先輩の様子がいつもとは違って見えた。
手を振った先輩は俺とは違う反対方向のホームへ向かう。
「……先輩!」
思わず呼び止めてしまった。
先輩は振り返り少し驚いた顔をしていた。
背後から突然大声で呼び止めたのだから当然だ。
「なに……?」
「あ、あの……本当にありがとうございました」
「うん……それはさっき聞いたよ」
「違います。転校前に俺が……先輩にかけてもらった言葉。それがあったから俺は救われました」
「そうなの? でも、さっき大和くんは転校先で知り合った友達……雫ちゃん……だっけ? その子に救われたって言ってなかった?」
そうだ。
……俺は雫に弱さを吐露することができた。
そして雫はそれを受け入れてくれた。
大きな一歩を踏み出す雫を見て、俺も前に進むことができた。
「はい。……でも、やっぱり、そう行動できたのは先輩が俺を励ましてくれたからで……」
あのアパートに引っ越した日。
雫と初めて顔を合わせた時、俺はあいつと目を合わせることができなかった。
雫も他人を警戒していたのかその時は話しかけてはこなかったけど。
しかし、その翌日から雫は俺に何度も話しかけてきた。
不機嫌で怒りっぽくて、八つ当たりもあって……。
俺は他人とは関わりたくなかったから……正直言うと雫のことを煩わしいと思っていた。
できれば距離を置きたい。
話しかけてこないでほしい。
「雫のおかげで俺は今頑張ろうと思えています。でも、その前に、絶望していた俺の心を奮い立たせてくれたのは先輩の言葉でした」
『取り消せない後悔や死にたくなるような失敗があっても、いつかは前を向かないといけない。後悔や失敗から学ばないといけない。だって……そうやって糧にすることでしか、弱かった自分を肯定してあげられないから』
引っ越す前の俺に先輩が掛けてくれた言葉。
それを一言一句覚えている。
心が死んでいた俺だけど……響いた。
「他の誰かに同じようなことを言われても心に響かなかったと思います。先輩だったから……俺はその言葉を自然に受け入れることができたんだと思います」
論理的で、発する言葉はいつも正論。
そしてそれにはいつも真心がこもっている。
他社理解に長けている先輩だったから……。
優しい先輩だったから……。
「…………前を向く……? ……学ば、ないと……」
小声で先輩が何か呟いた。
「……あの、先輩?」
しかし、通過する電車の音や駅アナウンスの声が邪魔で聞き取れなかった。
「先輩、大丈夫ですか?」
「……あぁ、うん、平気よ」
虚ろな目だった。
やっぱり今日の先輩は少しおかしい。
「ねぇ、大和くん。私って数学が一番得意なんだ」
「えっ……? あ、そうなんですか……」
数学?
一体、何の話を……?
「小学生の時の私は……三平方の定理も解けなかった」
三平方?
ピタゴラスの定理は……一般的に中学で習うはず……。
「大和くんなら……幼い時でも解けたのかな?」
「……いえ……覚えていません」
「私は……無理だったなぁ。……ううん、どうだったかなぁ……。もう……忘れちゃった……」
さっきから先輩が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「さっきの……大和くんが引っ越す前に私が言った言葉。それってね、受け売りなんだ」
「受け売り? ……そう、なんですか?」
「うん、私が……凄く尊敬している先生が……そう言ってくれた」
過去に速水先輩も……。
「……ごめんね。そろそろ電車が来るから。……じゃあ、またね、大和くん」
最後はいつも通り優しい表情でそういった先輩が、俺に背を向けて歩き出した。
大学で久しぶりに再会した先輩を見たとき、とても大人びて感じたけど……。
今の先輩の後ろ姿は……とても儚げに見えた。
♢
今日はとても濃密な一日だった気がする。
大学に行って、速水先輩と久しぶりに会って、色々な話をして、葵のことを思い出して……。
『気持ち悪いんだ……汚い……人間なんだ……私って……』
速水先輩の自己否定的な言葉を初めて聞いた。
そして駅のホームでの先輩の様子も……少し気になる。
バイトで初めて顔を合わせた日。
休憩時間が一緒で、先輩が俺に声を掛けてきてくれた。
『牧野大和くん……だよね? 今年うちの学校の新入生で首席合格した……』
不愛想な俺に対して、先輩は明るい人だった。
初めての仕事で慣れないことが多くて苦労している俺を、部門が違うのにも関わらずあの人は何度も助けてくれた。
一度電車の乗り換えてから十数分で、俺は自宅近くの駅に返ってきた。
電車を降りて改札を出て空を見上げると、夕焼けがとても綺麗だった。
「よっ、おかえり、大和」
「雫? ここでなにしてるんだ?」
駅を出て徒歩数分の自宅アパートへ歩みを進めようとした矢先、視界に入ったのはガードパイプにもたれ掛かっていた雫だった。
「大和を待ってたんだよ。そろそろ帰ってくるかなと思ってさ」
「そっか。わざわざ迎えに来てくれたのか」
「べ、べつにそんなんじゃないし! 母さんに頼まれて買い物に来たスーパーがたまたま駅の傍だったから!」
言葉では強く否定しているが、照れ隠しだろう。
買い物に来たというわりに、雫は手ぶらで何かを買ったようには見えないし。
「ほら、早く帰るぞ!」
「はいはい」
俺は雫とともに帰路に就く。
最近は学校から下校する時も一緒だし、この日常にも慣れてきた。
「大和、大学はどうだったんだよ?」
「学食を食べたり、講義室や研究室を覗いたり、大学生になったような気分で楽しかった。本当に行って良かったよ」
「そっか。これはもう私のおかげだな。私がオープンキャンパスの話をしなかったら大和は大学に多分行ってないだろう?」
なんだか今日の雫はいつもよりもよく喋る気がするな。
「ああ、そうだな。多分行ってなかったと思う。雫のおかげだよ。ありがとな」
俺がそういうと雫は一瞬目を丸くした後、明後日の方向を見て言葉を返してきた。
「べ、べつに! 私はオープンキャンパスに絶対に行けとはいってないし。……それは、大和が自分から行動したからであって……」
「そうだな。でもそうなるように促してくれたのは雫だろう? ありがとう」
「……う、うん」
顔を見られたくないのか、俺より数歩前を速足で雫は歩き出した。
俺が素直にお礼を言ったものだから気恥ずかしくなってしまったのだろう。
その表情を伺うことはできないが、雫の耳が赤く染まっていた。
少し沈黙の時間が続いたので、こちらからも話題を振ってみる。
「雫は今日何をしていたんだ?」
雫の歩くスピードに合わせて、俺も彼女の横に並んだ。
「う、うん。今日はお坊さんが来ていたんだ」
お坊さん?
それを聞いて、少し前に雫の父親の話を思い出した。
「もしかして……今日がお父さんの……」
「うん。父さんの命日だから……」
……そうか。
雫も大学に行きたそうにしていたけど、父親の命日と日にちが被っていたから来なかったのか。
「ごめん、雫。俺……知らなくて……」
「や、大和が謝ることなんてないよ! これは私の家の事情なんだし」
「でも……雫は今日辛い気持ちだっただろうし、俺だけ楽しかった話なんてして……」
「そ、そんなことないって! 父さんが亡くなったのはもうだいぶ前の話だし! それに……大和が楽しかったって聞くと……わ、私は嬉しいから!」
また恥ずかしそうにはしているけど、今度は表情を隠すことをしなかった。
私も嬉しいから、か。
やっぱり、今日は寂しい思いをしていたんだと思う。
「俺も……そうだな」
雫の性格はもう知っている。
こいつは臆病だけど、とても素直な……女の子。
「俺もだよ。雫が楽しそうにしていたら、俺も……嬉しいな」
「えっ……? ほ、本当に……?」
「ああ」
俯いた雫の顔が真っ赤になっていた。
俺は色々なことに鈍感だと思う。
それでも……わかることはある。
雫は俺のことを信頼してくれている。
それがどの程度かはわからないけど……もしかしたら。
「大和……ありがとう。私……凄く、今が楽しいなぁ」
だけど……疑問は残る。
どうして雫は俺に心を開いた?
思い返してみれば……出会って間もない頃から……。
「や、大和……どうかした……?」
「あ、いや、なんでもないよ」
考えに耽っていて俺の顔を心配そうに見つめていた。
「じゃあ、今日は真知子さんも家にいるんだな」
何事もないように俺は話を切り返した。
「うん、いるよ」
「もしも迷惑でなかったら、お線香をお供えさせてもらってもいいかな?」
雫の父親とは面識のない俺だけど、雫や真知子さんには世話になっている。
「迷惑なんかじゃないよ。ありがとう。父さんと会話してあげて」
哀悼……そして、二人に対する感謝を仏壇の前で伝えたかった。
「そういえば……昼ぐらいだったかなぁ。今日大和を訪ねてきた人がいたぞ」
突然雫が何かを思い出したように言葉を発した。
「俺を訪ねてきた? どんな人だ?」
この地に引っ越してきて学校の友人は何人かできたけど、わざわざアパートを訪ねてくる人間なんて思い浮かばなかった。
もしかして……転校前に関わりがあった誰かなのか……。
「昼飯を買いにコンビニに行こうと玄関から出たら、大和の部屋の前に帽子を深く被った男が立ってたんだ」
……男?
「私に気付いたそいつが『牧野くんって、ここに住んでるのかな?』って聞いてきて」
牧野くん?
確かにその言い方だと、母さんじゃなくて俺を訪ねてきたということは間違いなさそうだ。
「なんだよその男。すごく怪しいじゃないか」
「私もそう思ったから、知らない、って答えたけど……」
「それで、その男は帰ったのか?」
「うん。でも去り際に『また来るかもしれない』って言っていた」
なんだ?
その男は俺の知り合いなのか?
「どんな外見だった? 何歳ぐらいに見えた?」
「多分若いよ。でも私たちよりは年上だろうけど。20代ぐらいかな」
20代の男……。
俺にそんな知り合いはいない。
「他に何か気になることはあったか?」
「気になるっていうか……」
雫の表情が強張っていた。
「その男が……怖かった」
「怖かった? な、なにかされたのか!?」
「ううん! そうじゃなくて、目つきが悪かったし……なんというか……雰囲気が……怖かった」
なにもなかったようなので安心はしたけど、雫が言った男の特徴が抽象的で解像度は低い。
「まあ、ただのセールスマンかもしれないしな。多分、もう来ないだろう」
不安を感じている雫を安心させようとそんなことを言った。
「そ、そうだよな! まったく、飛び込みセールスなんて迷惑な奴だな!」
恐らく、そいつはセールスマンなんかじゃない。
その言動から大人の母さんじゃなくて、一介の学生に過ぎない俺のことをわざわざ探していると推測できる。
それと……気になる点がもう一つ。
「雫、その男は『牧野くん』って言ってたんだろう? よく俺の前の苗字がわかったな」
「えっ!? あー……うん……それは……」
「もしかして……母さんに聞いたとか?」
「あぁ……うん、そうかも……」
歯切れが悪い返事だ。
俺は雫に以前の苗字が牧野だったという話はしていない。
「もうすぐ夏休みだな。今日大学へ行ってさ、もっと勉強頑張ろうって思ったよ」
露骨に話を変えてみた。
「そ、そっか……」
「一緒に頑張ろうな、雫」
「う、うん、当たり前だろう! 私は毎日絵を描いてるけど、最近はクロッキーの練習をしていて短時間で────」
雫はいつもの調子を取り戻して、楽しそうに話をしてくれる。
雫が以前書いていた建築画。
そこで働いていたという真知子さん。
そして、雫の反応。
俺の頭の中で、少し、記憶の蓋が動いた気がした。




