第五話 心解ける刻
◎毎日21時30分更新予定
◎この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません
六ノ丞は自室の窓辺に座り、凜との昨日の会話を反芻していた。
“……思い出せないのです”
“何を?”
“……何もかも”
“何もかもというのは……”
“自分の名も家も過去の記憶も全て……”
(全て思い出せないとは怪我なのか事故なのか……それとも何か別の理由で記憶を失っているのか……?)
落ち着かない心が、六ノ丞の足を自然と本邸へと向かわせていた。
***
「……六ノ丞様!?」
思いがけない主の登場に、本邸の空気が一瞬にして張り詰める。
執務を終えた後、六ノ丞が本邸に再び姿を見せることは滅多にないからだ。
「気にせず続けよ。様子を見に来ただけだ」
「はっ!」
仮の君主となり、六ノ丞が最初に改めたのは家臣達の日常の在り方だった。
家臣達を班に分け、曜日によって行うことを振り分けた。
庭では木刀を振う者、広間では筆を走らせる音が響いている。
誰もが緊張と誇りを帯びた眼差しをしていた。
年齢や立場に関係なく、その道に精通した者を指南役に据えた。
教える者は誇りを持ち、学ぶ者は刺激を受けて励みになる。
その循環は、屋敷の隅々にまで活気を齎していた。
さらに奥へ進むと、六ノ丞も含め、冴木家総出で耕して作った広大な畑が現れる。
「……どうだ、順調か?」
収穫作業をしていた家臣達は、一様に驚いた様子で顔を上げる。
「はい、相変わらず葱と春菊が豊作です。大根もだいぶ育ち、収穫が近いかと。」
「そうか、引き続き頼む」
「はっ」
その奥の炊事場では竈から立ちのぼる湯気と共に、香ばしい匂いが漂っていた。
「六ノ丞様、どうしてこのようなところへ?」
突然の主の訪問に動揺を隠せない。
「特別な意味はない。何か困った事などはないか?」
「はい、おかげさまで」
「ならば良かった。これまで通り塩分を控えめに。皆にたくさん食べてもらえるよう準備を頼む」
「かしこまりました!」
“食”は身体と心を育てる――その安定と安心を大切にした六ノ丞なりの判断だった。
***
屋敷内を一巡し、自邸に戻った頃には既に日が傾いていた。
庭先から走り寄って来た犬の幸の頭を撫で、縁側に腰を下ろす。
――あれから戦いもなく平穏だ。
自分は即席の仮の君主。
総竹のような指導力も求心力もない。
冴木の血を引いている者が今は自分しかいないから従ってくれている――それが分かっているからこそ、この立場は荷が重い。
ただいつか兄達が戻ってきた時に恙なく引き継ぐために、自分なりに務めている。
(どれも取ってつけたような……無難な采配だが……)
自嘲が胸を掠める。
それでも兄達を探しに行かないのは、千羽家に潜む火種を恐れているからなのだろう。
(できる限り穏便に、無難に……そう考える自分は、つくづく君主という立場に向いてはいないな……)
***
「……六ノ丞様、お食事の用意が整いました」
襖越しに凜の声が届く。
あれから一週間。
屋敷前で倒れていた少女、凜は六ノ丞の側仕えとして働いていた。
まだ記憶は戻らないようだが、炊事、掃除、動物達の世話など、与えられた役割を黙々とこなしてくれる。
「凜様が来られて、随分と屋敷が手入れされましたな」
「……ああ、本当に」
六ノ丞と忠兵衛、凜の三人で囲む食卓には穏やかな時間が流れていた。
食卓に並ぶ品々はどれも心のこもった優しい味がする。
凜は、少し照れながらも嬉しそうな笑みを浮かべた。
***
「可愛い……」
雛鳥が、差し出した餌に必死に口を開けて食らいつく様子に自然と頬が緩む。
(……自分にもこんな気持ちが残っていたんだ)
小さな命を前に、心に穏やかな風が吹き込む。
午前中の動物の世話は、六ノ丞の信頼を得て自分に任されるようになっていた。
(本当可愛いな……)
日当たりの良い縁側で福を撫でていると、自分がどうしてここにいるのか、つい忘れてしまいそうになる。
(……気を抜くな、凜)
事あるごとに自分に言い聞かせる。
恩を返すためにここに留まっているわけではないのだから――。
「随分と懐いているな」
背後から六ノ丞の声がして、慌てて立ち上がりお辞儀する。
「……お帰りなさいませ」
「まだここに来て日が浅いのに、凜に良く懐いているな」
そう言われると何だか照れ臭い。
「……福はとても優しい子ですから」
六ノ丞が隣にしゃがんで福を撫で始めると、途端に福がお腹を見せてごろんと転がる。
「ふふっ……可愛い。六ノ丞様のこと、信頼しているのですね」
福を見つめる六ノ丞の眼差しは穏やかそのものだ。
(……このお方が……)
彼の横顔に心が揺さぶられる。
***
ここへ来て一週間。
六ノ丞の評判を耳にする度、この人がそうだとは認めたくなくなっていた。
ほとんど歳は違わないのに、大人びていて優しくて、そして儚げで――。
光に溶けてしまいそうなその横顔に心がざわつく。
(……あの時と変わらず……ううん、あの時よりも、さらに)
「――どうした?」
その言葉に我に返る。
「い、いえ……今晩召し上がりたいものはございますか?」
「……そうだな、この前の里芋の煮物がまた食べたいな」
「かしこまりました」
それを聞いて笑みを浮かべる顔は、年相応にも見える。
だが、背負っているものは自分の想像を超えているのだろう。
「……では支度してまいります」
「ああ、よろしく頼む」
廊下を歩きながら思う。
まさか、再び会う日が来るなんて。
しかもこんな形で。
こんな場所で。
こんな立場で――。
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