第四話 記憶を失くした少女
◎毎日21時30分更新予定
◎この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません
稽古を終えて部屋に戻った六ノ丞の元へ、忠兵衛が困り果てた表情で姿を現す。
「……どうした?」
「それが……」
言い淀む背後から、次々と見知った面々が顔を覗かせる。
「……そなた達は……」
***
六ノ丞邸の座敷の広さに不釣り合いな三十余名もの家臣達が、六ノ丞の返事を固唾を呑んで見守っていた。
「……話は分かった」
六ノ丞は深く頷いた後、順に顔を見つめながら静かに言い放つ。
「だが申し訳ない、お断りする」
「なっ、なぜですか!?」
「六ノ丞様にお仕えさせてください!」
「先日の戦も回避されました。六ノ丞様こそ、冴木家の君主に相応しいお方です!」
次々と訴える声を、六ノ丞は首を振って制した。
「先の戦を止めたのは、無駄な血が流れるのを防ぎたかっただけ。私は君主の座などに興味はない」
その言葉に家臣達も食い下がる。
「しかし、このまま君主不在が続けば領地も乱れます。一之丞様達は未だ行方知れず。我々だけでなく、領民達も六ノ丞様の即位を望んでおります!」
「……私は戦を好まぬ。この乱世に、そのような君主は不要だろう」
「ならばせめて、兄君達が戻られるまでの間だけでも君主になってはいただけませぬか」
「……兄上達も直戻ってくるはずだ」
家臣の一人が静かに前に出る。
「それが……一ノ丞様達は千羽家に身を寄せているとの目撃情報がございます」
「何だと?」
千羽家は古くから冴木家と敵対関係にある古豪だ。
「なぜ兄上達が千羽家へ……?」
「理由は分かりませぬ。ただ、以前より千羽家の間者らしき者が冴木領に出入りしていたのは事実でございます」
「……」
(一体何のために……?)
家臣達が再び頭を下げる。
「お願いにございます。六ノ丞様にお仕えさせてください。我々も従う主君が分からず混乱しております」
六ノ丞は静かに瞼を下ろし、深く息を吐く。
頭を下げる家臣達を前に、六ノ丞はようやく皆に望まれていた言葉を口にする。
「……分かった。兄上達が戻るまでの間に限り、仮の主を務めよう」
「おお!」
座敷が安堵と歓喜に満ちた声で揺れた。
だが、六ノ丞の胸中には、言い知れぬ不安が広がっていた。
(兄上達は千羽家と手を結んだのか、それとも囚われているのか……知らぬ間に何が起こっているというのか……)
***
結局兄達からは一向に連絡がないまま、六ノ丞が冴木家の仮の主となってしばらくの月日が流れた。
しかし、六ノ丞自身には何の変わりはない。
変わったことと言えば、本邸で仏壇に手を合わせた後、そのまま本邸で執務をこなすようになったこと位だ。
執務が終われば、自邸へと戻る。
今までと変わらない、あの奥まった場所にある小さな屋敷。
机には相変わらずたくさんの書物が積まれている。
そのうちの一冊を手にし、縁側に座る。
途端に猫の福が膝に乗ってくる。
今日もこの後、いつも通り心穏やかな時間を過ごすはずだった。
——だが、その日は違っていた。
慌ただしい足音と共に、忠兵衛が六ノ丞の部屋の戸を叩く。
「六ノ丞様!」
「どうした?」
「屋敷の前に少女が一人倒れておりました。意識がなく……中へ運んでもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。客間が空いている。すぐに侍医を!」
「はっ!」
六ノ丞はその間、客間に布団を敷く。
六ノ丞の指示を受けた門番達が、手際良く少女を運び込む。
「気を失っているのか?」
「はい、脈や呼吸はあるのですが、先程から全く身動ぎもせず……」
「……!」
少女の顔を覗き込んだ六ノ丞は息を呑む。
「六ノ丞様、侍医を呼んでまいりました!」
息を切らした忠兵衛が駆け込んでくる。
「……あ、ああ。頼む」
後ろ手に襖を閉めると、六ノ丞は胸の内を隠すように、強く指先を握り締めた。
***
「——何らかの理由で一時的に気を失っていたものと思われます。しばらく安静にしていれば、そのうち良くなるでしょう」
侍医の言葉に六ノ丞も忠兵衛もほっと息をつく。
「それは良かった……。六ノ丞様、この少女をこのままこちらで寝かせて構いませんか?」
「もちろんだ、椿にこの少女の世話をするように頼んでくれ」
「承知いたしました」
***
翌朝、少女が目を覚ましたとの知らせを受け、六ノ丞は隣の部屋へと向かう。
部屋に入ると、畳んだ布団の傍らで少女は丁寧に正座し、深く頭を下げていた。
「……もう起きて平気なのか? 身体に痛みは?」
「はい、おかげさまで……」
顔を上げた少女は、六ノ丞の姿を目にした途端はっとした表情を浮かべる。
「……どうかしたか?」
「い、いえ……何でもありません」
少女は自らを落ち着かせるように胸に手をあてた。
「目覚めたばかりだ。無理をせずもう少し休んでいくと良い」
そう言い残して部屋を後にしようとした、その時——
「お待ちください! お願いがございます!」
その声に六ノ丞が振り返ると、少女が縋るような目でこちらを見上げていた。
「……どうした?」
「私をこちらで働かせてはいただけませんか?」
「!」
その表情は真剣そのものだ。
「……そなたは……」
言いかけた六ノ丞の言葉を、少女の次の一言が遮る。
「……思い出せないのです」
「何を?」
「……何もかも」
一瞬、空気が止まる。
「何もかもというのは……」
「自分の名も家も過去の記憶も全て……」
「!」
「帰る場所も分からず……ですから記憶が戻るまでの間、こちらで働かせてはいただけないでしょうか?」
「……」
頭を下げる少女の前に六ノ丞はそっと膝をつき、優しく声を掛ける。
「分かった……ならば、そなたの名を“凜”としよう」
「……!」
驚きのあまりに少女の表情が固まる。
「嫌か?」
「い、いえ……ありがとうございます」
「きっとすぐ戻る。それまでの間、私の側仕えとして働くと良い」
「ありがとうございます」
その少女、“凜”は深々と頭を下げた。
***
その直後、誰にも気付かれることなく、一つの黒い影が屋敷の屋根を駆け抜けていった。
六ノ丞も凜も、まだその存在を知らない——。
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