第二話 幻の大軍
朝の光が仏壇を柔らかく照らす中、六ノ丞は仏壇の細部に至るまで丁寧に拭き清め、花を替え、水を注ぎ、父・総竹が好んだ梨を供えた。
この日課を続けているのは、今となってはもう六ノ丞一人だけだ。
始めのうちこそ五人の兄達も一緒だったが、四十九日を過ぎた頃には皆ぱたりと姿を見せなくなっていた。
仏壇の前に正座し、六ノ丞は心の中で問いかける。
(……父上)
優しく偉大で、まるで太陽のような存在だった父。
歳の離れた末子のせいか特に可愛がってもらった。にもかかわらず、兄達の手前それを素直に喜ぶことができなかった――その後悔が未だに胸を締め付ける。
その時、廊下の向こうから怒声が鳴り響いた。
「冴木の嫡男は、この俺だ!」
「何を言う、父の右腕だったのは俺だ!」
「父上と戦場を共にした数なら私が一番多い!」
心の奥が軋む。
(……父上、冴木家はこれからどこへ向かうのでしょうか?)
父亡き後、五人の兄達は後継の座を巡って激しく争い、邸内はいつしか一触即発の状態に陥っていた。
(このままでは、冴木は内から崩れてしまう……)
といって、自分に何かできるわけではない。
六ノ丞は音もなく立ち上がり、一人静かに本邸を後にした。
***
冴木家本邸から一番遠く離れた東の奥座敷。
そこが六ノ丞の住まいであり、ささやかな静寂の砦でもあった。
簡素な造りながら目の前の庭は手入れが行き届き、季節の花々が淑やかに咲き誇っている。
邸宅に戻ると同時に、犬の幸、猫の福がすぐさま駆け寄って来る。
邪気のない澄んだ瞳に、思わず顔が綻ぶ。
六ノ丞邸には、幸と福の他にも、羽が傷ついた小鳥、生まれたばかりの子猫などたくさんの動物がいる。
その一匹、一羽ずつに声を掛けて世話をするのも日課だ。
「坊ちゃまは本当に動物がお好きで……」
老臣の忠兵衛が、横から一緒に鳥篭を覗き込む。
「この子は羽ばたきができるようになったんだ、もう少ししたら飛べるようになる」
「拾って来られた時、ぐったりしていたあの鳥ですね」
「最近は水浴びまでするようになったんだ」
篭の中には水入れとは別に水を張った浅皿が置かれている。
「ここで泳ぐのですか?」
「ああ、上手なものだ」
怪我や病気の動物は、侍医の助けも借りて手当をし、野生に返せるものは返し、年老いた動物はそのまま飼っている。
父が存命の時は一家揃って本邸に住んでいたため、よく兄達に「また拾ってきて」と呆れられていたが、ここならそう言われる心配もない。
***
もう一つ、六ノ丞にとって欠かせないのが読書だ。
先日の形見分けで、兄達が刀や甲冑などを譲り受ける中、六ノ丞が所望したのは、一つの鍵――それは、冴木家の蔵書を守る書庫の鍵だった。
読書好きだった総竹のおかげで、書庫にはたくさんの書物や巻物が収められていた。
兵法、交渉、戦略に関する書物が多いが、軍記物や地誌、医学書、和歌集や漢籍といった幅広い書物も並ぶ。
自分の好きな時間に書庫に赴き、好きな書物に身を投じる――美しい庭を眺めながら、六ノ丞は一日の多くの時間を読書に充てていた。
***
それからしばらく経ったある日のこと。
いつものように書物を読み耽っていた六ノ丞の元に、忠兵衛が息を切らして駆け込んできた。
「六ノ丞様!」
「どうした?」
「大変です! 白磯家が兄君達の討伐に動いております! 惟重公がすでに兵を準備しているとか」
「惟重殿が!?」
苑江地方最大の領主、白磯惟重――。
文武のみならず人格にも優れ、父・総竹でさえ一目置いていた若き将。
「どうして急に?」
「どうやら冴木家と砂山家の国境で火の手が上がったそうで、砂山家が白磯家に助けを求めたとか」
「まさか兄上達が火を放ったというのか?」
「兄君達は否定しているようですが、これを戦果の好機とみて兵を向けております」
(……大した準備もせずに……民を巻き込むつもりか……)
「いかがいたしましょう?」
「……惟重殿の元へ参る」
「承知いたしました、お供いたします」
「いや、私一人で行く。忠兵衛は、領民達が戦に巻き込まれる前に廃寺に避難させてくれ」
「しかし兄君達は既に出立しております。今から民の避難と言っても、もう間に合わないのでは?」
その言葉に六ノ丞は地図を広げる。
「おそらく兄上達はこちらの道を通るはず。ならば、こちらの道を」
「こ、ここは……」
地図上に道はない。
「ここは以前通ったことがある。道幅は狭いが平らで走りやすく、こちらの方が圧倒的に早い」
忠兵衛は驚いたように主君の横顔を見つめる。
六ノ丞が立ち上がる。
「とにかく一刻も早く民を廃寺へ頼む!」
「承知いたしました、すぐに向かいます!」
忠兵衛が部屋を慌ただしく出て行く。
六ノ丞も白磯家へ向け、急ぎ身支度を整える。
そして、その数刻後には一人、山道を超えて白磯家の屋敷を訪ねていた。
***
「……冴木家の六ノ丞が?」
白磯家では、惟重が家臣からの報告に驚いていた。
「はい、どうしても急ぎお会いしたいと、お一人で」
「……あの年端のいかない男子が一人で来ているのか?」
「はい。従者もなしに、どうしても惟重殿に面会願いたいと、門前にて何度も頭を下げております」
「……分かった、通せ」
***
部屋に通された六ノ丞は正座し、やがて入室してきた惟重に静かに頭を下げる。
惟重は無言で対面に座る。
「――久しいな。急にどうした?」
「約束なしに突然お訪ねした非礼、どうぞお許しください」
そう言って上げられた顔にはかつてのあどけなさはなく、凜とした大人の面影が宿っている。
「本日は惟重殿にお願いがあってまいりました」
「……兄君達の件か?」
「はい。この度は大変申し訳ございません」
六ノ丞が深々と頭を下げる。
「……して、ここへ来た理由は、まさか挙兵を取りやめろと?」
「はい、明朝までには兵を撤退いたしますゆえ」
惟重の表情が一気に驚きへと変わる。
「……明朝、だと?」
「はい」
淡々とした表情を崩すことなく、きっぱりと言ってのける六ノ丞に惟重は面食らう。
「明朝と簡単に言うが、兄君達はこの戦で最も手柄をあげた者が真の後継者ぞと息巻いているそうではないか」
「兄上達の考えは分かりませんが、少なくとも民を巻き込むやり方は間違えています。何卒、明朝まで挙兵をお待ちいただけないでしょうか」
惟重は沈黙したまま、六ノ丞をじっと見据えた。
そこにあるのは、強い覚悟と意志を秘めた瞳――。
「……明朝までとは何か具体的な策があっての事だろうな?」
「はい」
「しかし、そなたは戦の経験がないのでは?」
「はい。それゆえ血を流さぬ方法を考えました」
そう言って自分を見上げた目線の鋭さに、惟重の表情が固まる。
(これが……少年が見せる表情か?)
「……策を申してみよ」
「ありがとうございます」
六ノ丞は静かに身を乗り出し、惟重に耳打ちする。
語られた策に、惟重の目が大きく見開く。
「……幻の大軍、ということか」
「はい」
惟重はしばらく黙した後、低く笑った。
立ち上がった惟重が、六ノ丞に心強い言葉を掛ける。
「……無地旗と兵を貸そう。そなたの案、気に入ったぞ」