第一話 異端
春の東風が山間の大地を優しく包み、満開の桜が花吹雪となって射場の土へひらひらと舞い落ちる。
雷鳴のごとく響き渡る太鼓の音が止むのと同時に、次の射手が高らかに読み上げられた。
「――次、六ノ丞!」
その名が呼ばれた瞬間、見物席の空気が俄かにざわつく。
めったに人前に姿を現さないとされる、あの冴木家の六男の名だ。
前方の陣より、一人の少年がゆっくりと立ち上がる。
「あ、あれが……」
「本当に男子なのか?」
「絵から抜け出したようだと聞いていたが、あれは正しく……」
春光を浴びてゆったりと歩くその姿は、その場にいた全ての視線を一気に奪い去る。
あどけなさを残す輪郭に、白磁のような肌。
柔らかな琥珀色の瞳。
すっと通った鼻筋に、微かに揺れる長い睫毛。
光をはらんだ衣が風に舞い、まるで彼以外の時間が止まったかのようだった。
「……この世の者とは思えぬな……」
誰かが呟いた言葉が、人知れず風に攫われる。
六ノ丞と呼ばれたその少年は、周囲の視線や声に動じることなく、身体の割に幾分大きい弓を握りしめ、射位へと静かに歩を進める。
群衆が固唾を呑んで見守る中、六ノ丞はそこで一呼吸つく。
無駄のない動作で弓を構え、瞳がまっすぐに的を捉えた次の瞬間——張られた弦が澄んだ音を立て、風を一直線に裂き、的の中心を鋭く貫いた。
「おぉっ……!」
思わずどよめきが起こる。
――だが、それはほんの序章に過ぎなかった。
二の矢も、三の矢も。
六ノ丞が放つ矢は、迷うことなく中心を射抜いた。
「……これは見事、さすがだ六ノ丞」
近くで見守っていた父・総竹が満足げに手を叩く。
それにつられるように、やがて会場全体が歓声と拍手に包まれた。
「よくやった、六ノ丞」
息子の肩に手を添えながら掛けた労いの言葉には、称賛と誇りが滲んでいた。
しかし、その傍らで五人の兄達が浮かべる表情――それは称賛から程遠い……むしろ真逆ともいえる嫉妬と憎悪に満ちたものだった。
いつも家に引き籠ってばかりで、六ノ丞が弓を引く姿など一度も見たことはない。
あの真新しい弓が意味するところは……きっとそういうことなのだろう。
弓を握る自分達の手のひらには無数の肉刺ができているというのに。
総竹が息子の活躍を周囲に得意気に語る中、六ノ丞は兄達の冷ややかな視線を浴び続けていた。
その夜、本邸に戻った後も兄達は誰一人として六ノ丞に話しかけることなく、まるで射会はなかったかのように振舞われた。
***
翌朝。
六ノ丞は朝霧が立ち込める荒野を、馬上から眺めていた。
昨日の賑やかさが、まるで夢のようだ。
馬を降り立ち、草の間に転がっていた“何か”を拾い上げる。
それは無惨に割られた的木だった。
見れば、ここにもあそこにも散乱している。
胸底に巣食う暗い影が疼く。
それらを見つめながら、六ノ丞は静かに思う。
自分が冴木家に生まれたことが、どれほど呪わしいことなのかを――。
下ろした瞼が微かに震えた。
***
冴木家は五人の男子が続いていた。
次こそは女子を――。
そんな期待が高まる中、侍医は「次の御子は女子です」と告げた。
冴木家は喜びに溢れ、女子を迎えるための準備が着々と進んでいたという。
けれど、いざ生まれてきたのは男子。
当時の侍医は追放されたと聞いた。
しかも、自分の産声と引き換えに母の命は失われてしまったのだ。
「……」
朝露に濡れた的木をそっと撫でる。
兄達は、自分達とは全く見た目が異なる年の離れた六ノ丞を愛そうとはしなかった。かと思えば、戯れに女子の衣や飾りを身につけさせては嘲笑した。
幼い六ノ丞には何が起きているのか分からない。
ただ、普段見向きもしてくれない兄達が嬉しそうにするのを見て、自分も笑顔を返した途端、なぜか兄達の視線はいきなり冷えたものへと豹変した。
「……面白くねぇ、あっち行こうぜ!」
女子の格好のまま放り出された幼い日の記憶。
世話係の忠兵衛が慌てて駆け寄る。
(思えばそんなことの繰り返しだったな……)
いつしか“自分に求められているものは何なのだろう?”
事あるごとに自問するようになっていた。
そして自分が導いた答えは、“できるだけ目立たないよう生きること”。
その日以来、このことに細心の注意を払って生きてきた。
“女のような顔をして”
“本ばかり読んで武士の子とは思えぬ”
“怪我した動物ばかり連れてきて”
蔑まれる言葉の方が、褒め言葉よりも何倍も気楽だった。
昨日のように、時に避けられない“目立つ瞬間”は地獄のようだった。
六ノ丞は立ち上がって空を見上げる。
山の冷たい空気が頬を撫でる。
「羨ましいな……」
朝焼けの空を自由に舞う鳥を見て思わず呟く。
いつも思う。
――もし、母を殺すような産声を上げなければ。
――もし、男子として生まれなければ。
――もし、このような顔で生まれなければ。
周囲から悪意めいたことを言われても、兄達からどんな仕打ちを受けても黙して吞み込んできた。
それはまるで、生まれたことへの“罰”を受けるかのように――。
***
それから一年。
冴木家当主・総竹は病に倒れ、あっけなくこの世を去った。
あまりに急な最期で、遺言の一つも残されてはいない。
だが、生前の言葉が火種を落とした。
“家督は最も相応しい者に譲る”――と。
その一言が、五人の兄達を互いに敵へと変えてしまった。
冴木の名を冠する者達が、自らの手で冴木家を壊し始めようとしていた。
***
離れの一室で本を読み終えた六ノ丞は、窓辺で溜め息を落とす。
喉を鳴らしながら寄り添う老猫・福の背を撫でながら、静かに呟く。
(……籤で決めれば良いのに)
***
その時は誰も知らなかった。
もちろん本人でさえ。
この六ノ丞が冴木家の運命を大きく変えることになろうとは――。