溟の月
少し水滴のついた窓に薄く映る自分の顔を、ぼんやりと眺める午前九時。
空を見上げると、昨日のバケツをひっくり返したような豪雨では飽き足らず、次に降らせる雨をせこせこ汲んでいるような曇り空をしている。
また今日も雨が降りそうだ。
じきに梅雨入りかな。
ガタッ。
前に座る男子生徒達は話に夢中で、先ほどから甲高い笑い声と共に座席をガタガタと揺らしている。
クラスメイト全員がバスに揺られ向かう先は、水族館。
今日は、校外学習と名付けられた遠足の日だ。
水族館なんて、いったい何年ぶりだろう。
鮮明な記憶は、いくら頭の中を探しても見つからない。
それでも一度行ったことがあるのは確かなので、おそらく幼い頃に家族と訪れたのだろう。
まだ、両親が離婚していない時に。
私が幼稚園に入って間もない頃、父は私と母を置いて家を出ていってしまった。
両親は共働きだったため、もともと母や父と一緒に過ごした時間は多くなかった。
それでも、幼かった私にとって、父親が恋しいという気持ちは拭いきれなかった。
抑えきれない感情はやがて、母親への我儘となって表れ、その結果、母は子育てと仕事の疲労から次第に憔悴してしまい、ついには鬱病を患ってしまった。
母ひとりに多くを背負わせてしまったという罪悪感は、今も胸の奥に深く残っている。
あの頃から私は、人に思いを正直に伝えることが怖くなり、まともな人間関係はずっと築けないままでいる。
それでも、こんな私にも話しかけてくれる人が、クラスメイトの中にはいる。
前の座席越しに斜め前に視線を移すと、通路を挟んだ席に座る友人に話しかけている日高くんの顔が見えた。
このクラスに彼を嫌う人など一人としていない。
その眩しく純粋な笑顔と誰にでも向けられる優しさに、私は密かに恋心を抱いていた。
水族館の裏にある駐車場へ着き、前の座席に座る生徒から順に降りていく。
冷房がの効いたバスから外に出ると、雨の湿気と夏に近づく暑さが体を纏ってきた。
先生が導く方向へと、二列になった列を乱さずに着いて行く。
水族館前の広場に並んで座り、先生の説明と注意事項を聞く。
陽はそれほど照りつけていないが、少し蒸し暑い中じっと聴く話は、異様に長く感じた。
きっと誰もが、早く中に入って冷房の効いた館内で涼みたいと思っていただろう。
ようやく話が終わり、事前に組んだ班ごとに分かれる。
躊躇うように身を捩っていると、城崎さんが遠くから私を呼んでくれた。
私を班に誘ってくれたのは彼女で、彼女もまたクラスの人気者の一人だ。
誰にでも気さくで優しく、班分けの時、困っていた私を彼女は当然のように助けてくれた。
そして、その班には日高くんも入っていて、なんでもない小さな出来事が、私には少し嬉しかった。
先生が前もって入場券を買ってくれていたため、平日でも多くの人が並ぶチケット売り場の行列には、並ばずに済んだ。
館内への入り口は二階にあり、入場ゲートを潜った私たちは、順番にエスカレーターへと乗り込んだ。
「今日は髪、あげてるんだね」
声をかけられた事に気づき、驚いて少し上を見上げると、日高くんがこちらを見下ろしていた。
どうやら前後になってしまったみたいだ。
「あ、うん……」
今朝の天気予報で湿度が高くなると予報されていたため、いつもならおろしている髪を、今日はたまたま束ねていたのだが、そんな小さな変化にも簡単に気づいてくれることに嬉しさを感じる反面、咄嗟の出来事に動揺してしまい、掠れた声が口から出る。
「新鮮でいいね」と、またしても彼は、その無邪気な笑顔を向けてくる。
私はその笑顔に見惚れるように「……ありがとう」と小さく返した。
館内に入ると迎えてくれたのは、大きなトンネルの水槽だった。
揺らめく水面は眩しく、その光を遮るように大きなサメやエイがゆっくりと泳いでいて、まるで海の中を歩いているような、不思議な気分だった。
「すごい……」思わず感動の言葉が溢れ出す。
すると、「すごいよなあ」と横にいた日高くんが相槌を打ってくれた。
「水族館来たことあるの?」勇気を出して、会話を繋げようと試みる。
「うん? ああ、うち近所に水族館があって昔からよく家族で行ってたんだよ」
「……そうなんだね」家族で仲がいいんだね。
「そこにはどんな魚がいたの?」と訊ねようとしたその時、先に進んでいた城崎さんの日高くんを呼ぶ声が、遠くから聞こえた。
それを聞くなり彼は、この壮大な景色をゆっくり眺めることもなく、小走りで前へと進んでいってしまった。
トンネルを抜けると広間になっており、その中心には大きな水槽が聳え立っていた。
優雅に泳ぐ魚たちを楽しそうに見ている二人の姿が目に入り、その姿を後ろからぼんやりと眺める。
私も彼女のようになりたい。彼女のようになれたら、きっと、もっと上手くいくのに……。
結局一人で回ることになってしまった私は、人気が少ないであろう地下一階のフロアへと向かうことにした。
入場時にもらった館内図を小さく広げ、地下一階の欄を見る。
すると、一番左端に「くらげ館」と書かれている場所があった。
くらげか。
そういえば、昔に行った水族館でくらげを見たことはなかった。
小さい頃は自分よりも遥かに大きなものに目を奪われがちだ。
過去に訪れた時も、先ほど見たような大水槽で優雅に泳ぐサメや小魚の群れを、ずっと眺めていたのを微かに覚えている。
くらげ館に辿り着くと、その空間は他とはまた一味違う、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
照明は薄暗く設定され、天井からはくらげの形をしたガラスの電球が吊り下げられており、淡い橙色を灯している。
そして壁に埋められた丸や四角い形をした水槽には、無数のくらげが萎んだり膨らんだりを繰り返し、漂っていた。
綺麗というにはあまりに儚く、美しいというにはあまりに虚しいその光景に、私は今の自分を重ねてしまう。
心を閉ざした母親との関係も、報われない恋心も全て、この水槽に浮かぶ海月のよう。
誰にも気付かれることなく、ひっそりと暗い海の中を彷徨っている。
ふと彼と彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
ともに遠くへと走り去ってゆく彼らの後ろ姿は、私にはとても届かない、遠い景色だった。
きっとみんな彼や彼女のことが好きになる。
暗い海で寂しく漂う海月よりも、陸地で陽の光を浴びて咲く可憐な花の方が、きっと美しいから。
「あ、清水さん!」
「……城崎さん」
「ここに居たんだ。ねえ、あっちにすごい大きな魚がいたんだよ! 一緒に観にいこう?」
楽しそうに微笑む彼女の笑顔は、彼と同様に眩しい。
陸に上がるには、まだ陽の光が眩しいけれど、いつか、いつの日にかは、月の光ではなく、陽の光を浴びて輝ける人に、私もなりたいのだ。